2007年02月24日

羽生善治さんの講話を聴くの巻

f7f8ab21.jpgここで述べているように、私は、羽生善治さんを、将棋棋士としてはもちろんのこと、ビジネスマンとして尊敬している。

過日、某イベントでご縁を持ったKさんが、有限会社”私には夢がある”が主催する羽生さんの講演会に参加できる幸運を私に譲ってくださる旨おっしゃった。
私は、Kさんのお心遣いに感謝しながら、今日、羽生さんの講話を拝聴した。

羽生さんの講話は、大半が名著「決断力」と同じだった。
しかしながら、史上最強の棋士と評される羽生さんが、目の前で、本には記述されていない例示や補足を交えながら話してくださったため、私は、新たな気づきや深い得心を多々得ることができた。
講演終了後、羽生さんは、お疲れであるにも関わらず、初対面の私の質問に個別回答してくださった。
羽生さんは、私の質問を途中で遮ることなく、最後まで真摯に耳を傾けてくださったほか、私に、教示に富む回答を、速やかかつ熱心に授けてくださった。

講演に加えその様を見て強く感じたのは、羽生さんは、将棋界のリーダーとして、直近の利害に拘泥せず、世の中に散在している様々な物事やご自身を、表層面だけでなく、本質面からも深く洞察なさっている、ということだ。
私は、リーダーのあるべき姿を再認識した。

羽生さんは、回答の中で、寛容であることの意義を以下の旨で説いてくださった。
「寛容であること、即ち、自分の核となる&自分にとって絶対に譲れない考えを明確にすると共に、それ以外の考えを積極的に受け入れることは、自身の持続的な成長と成果の獲得を、ひいては、他者からの信頼の獲得を、高確率で担保する」。
私は、「『人間の器』とも表される寛容さは、自身のアイデンティティを確立した産物であり、かつ、それぞれは相互依存の関係にある」という羽生さんのお考えに、深い得心と強い共感を覚えた。

今日、尊敬する羽生さんのお考えに直接触れることができたこと、並びに、羽生さんとface to faceでコミュニケートさせていただいたことは、私にとって、間違いなく一生の財産となろう。
この場を借りて、羽生さん、並びに、本講演会を主催してくださった有限会社”私には夢がある”のスタッフのみなさんに、改めて心からお礼を申し上げたい。(敬礼)

拝聴した講話の内、「決断力」に記述されていない例示と補足のみ以下列挙した。
私と同様、羽生さんが大好きな方、並びに、リーダーになることを志している方の参考情報となれば幸いだ。




棋士は、先が全て読めているように思われている。
が、実際にはそんなことはない。
たしかに、何十手先も読むには読むが、読んだ手を指している途中で相手に予想外の手を指されてしまい、また一から読み始める、つまり、暗中模索しながら指している、というのが実態だ。
暗中模索する際に重要なのは、羅針盤がいかに確かか、ということだ。
羅針盤が確かであれば、最善手は指せなくても、次善手が(高確率で)指せる。

ツキは、好ましく、人を魅きつけてやまないものだ。
人がギャンブルにはまるのは、このせいだと思う。
勝負の世界に居ると、ツキの存在を感じることがある。
追い詰められた局面で手が良い所にいくか否かはツキの有る無しにかかっている、というのを否定はしない。
しかしながら、ツキにとらわれ過ぎるのは良くないと思う。
ツキにとらわれ過ぎて、実力をつけるのが疎かになるのは、本末転倒だ。
実力が上がれば、ツキが無くとも、相応のパフォーマンスができるようになる。
大事にすべきは、ツキではなく、実力だ。

将棋は因果応報のゲームだ。
リードされている局面でも諦めず、ベストを尽くすと、(高確率で)いい手が見つかり、形勢をひっくり返せる。
リードしている局面でもそれにあぐらをかいて、ベストを尽くすことを怠ると、(高確率で)悪手を指してしまい、形勢がひっくり返されてしまう。

将棋は、かつて、家元(世襲)制だった。
ただ、他の家元制のものとは異なり、勝負がはっきりついてしまうため、家元制と馴染みが悪かった。
そのため、家元制は崩壊し、今では、誰でもプロ棋士になれるようになった。
にもかかわらず、つい最近まで、家元制の名残が技術の向上を妨げていた。
たとえば、新手を編み出しても、それを指そうものなら、師匠や年長者から、「筋が悪い」、「異端だ」、「それはありえない」と言われ、その手が日の目を見ることは無かった。
しかしながら、情報化が進み、今ではこのようなことは無くなった。
棋譜は瞬く間に知れ渡り、新手の是非は多くの棋士によってすぐさま解析&評価される。
今や、「こんな手を指したら、師匠から怒られる」など、誰も思わない。
「この手を指してみたらどうだろうか?」と考え、「実際に差してみたらよかった!」というのが、ここ十年の主流の指し方であり、この指し方が技術の向上をもたらしている。
かくいう私も、新手を見ると、先入観から拒絶してしまいそうになるが、それは、成長の大きな妨げになるため自制し、できる限り白紙の心で見るよう努めている。

若い頃は、経験が乏しく、予見できる可能性(リスク)に限りがあることに加え、手持ちの選択肢が少ないため、無謀なことをする。
が、それは必ずしも悪くなく、時として、大きな流れや勢いといったものや、次へ進む大きな原動力となったりする。

年をとり、経験を重ねると、良いことと悪いことがある。
良いことは、可能性(リスク)が多く予見できることに加え、手持ちの選択肢が増えるため、少々のことでは動じないようになる、ひいては、リスクを高確率でヘッジできるようになる、ということだ。
悪いことは二つある。
ひとつは、「こうやっておけば、まあ、大きな失敗をすることなく、そこそこイケるだろう」と無意識的に楽をしようと考えてしまい、新しいものを生み出す努力をしなくなる、ということだ。
もうひとつは、予見する可能性(リスク)と手持ちの選択肢が増えることに従って、迷いや心配も増える、ひいては、決断や思い切りが悪くなるため、大きな勢いや流れを作りにくくなる、ということだ。

「石橋を叩いて渡る」のは、その時点だけで見れば、悪くない選択だ。
しかしながら、長い目でみると、必ずしも良い選択とは言えない、と思っている。
なぜならば、リスクを回避することで、新しいものを見つけ損なう場合が少なくないからだ。
私は、プロになって20年になる。
年々、無意識の内に石橋を叩く割合が増えているように感じる。
これは、新しいものを見つけたり、時代に取り残されないようにするには良くない。
新しいものを見つけたり、時代に取り残されないようにするには、アクセルとブレーキの関係で例えるなら、「アクセルを踏み込み過ぎかな?」というくらいが丁度いい、と思っている。

昔のインタービュー記事を読み、「昔、こんなことを言ってたんだ」と思う機会が結構ある。
つまり、物事をよく忘れるようになった、ということだ。
これは、記憶力が落ちていることが大きいが、必ずしも悪いこととは思っていない。
情報化が進み、意識的あるいは無意識的にインプットする情報が増えている。
でも、物事を記憶できるキャパシティは変わらない。
ゆえに、大事ではないこと、記憶しておかなくていいものは、忘れる、捨てることが欠かせない。

記憶した物事の内、当時、丸暗記したものは忘れてしまうが、ちゃんと理解したものは、いつでも取り出せる(忘れない)。
それは、物事を、知識として記憶することに終始せず、知恵へ昇華させ、自分のものにしているからだ。
「物事をちゃんと理解する」とは、物事を成立させる各ピース(=知識)を認識し、繋ぎ合わせる、ということだ。
物事がちゃんと理解できた瞬間は、「全てのピースが繋がった感」があるものだ。
「物事をちゃんと理解する」のは、とても大事なことだ。

知識を知恵へ昇華させるプロセスは、有意義かつ有用だ。
私は、十代の頃、ある戦法をかなり研究した。
その研究を通じて得た知識は、今、何の役にも立っていない。
が、その戦法を研究した過程、即ち、その戦法を「ちゃんと理解しよう努めた」プロセスは、別のテーマを研究する際の早道になるなど、今でも大いに役に立っている。
物事をちゃんと理解しようと努めることは、決して無駄にはならない、と思うし、また、自分へ常にそう言い聞かせている。

物事を覚える、理解する、真似する時は、五感を使うと効果的であり、かつ、持ちがいい。
だから、私は、将棋を真剣に研究する際、パソコンを使わず、盤上で駒を動かす。

サインを求められた時によく書いている言葉に「玲瓏(れいろう)」がある。
玲瓏は、四字熟語の「八面玲瓏(はちめんれいろう)」を省略したもので、富士山の天辺のような高い所からどこまでも周囲を見渡せる状況を、また、そんな透き通った穏やかな心境を意味している。
この心境を常に持っていたいとは思っているが、実際のところ、なかなかそういかない。
対局が始まり、「お願いします」と相手と挨拶を交わした時の心境は玲瓏だが、次第に、焦りとか不安など色々なものが湧き上がってきて、玲瓏を維持することはできなくなる。
その度合いがひどい場合、相手よりも実力が上回っていても、必ずしも勝てない。
「実力はあるものの、それが本番で発揮できない」原因の多くは、気持ちにあると思う。
その原因の克服方法、たとえば、緊張のほぐし方は、年数が上がれば、ある程度身につく。
だが、プレッシャーは、つまるところ、その人の実力に乗じてかかるものであり、抜本的な解決方法は、実力を上げること以外ない。
人は、高いバーを目の当たりにしても、「楽勝!」だと思ったら、プレッシャーを感じない。
プレッシャーを強く感じるのは、飛べるか飛べないかギリギリの時のような気がする。

人は基本的に怠け者だ。
何か目標を持たないと動かない。
ただ、何かの目標とかハードルを目の当たりにして初めて感じる力、出てくる力、というものもある。
潜在力は、「もうあとがない、ピンチだ!」と追い詰められた時に発揮されるような気がする。
練習は、いくら一所懸命やっても、本番のリアリティには敵わない。
人は、緊急時に陥ってみて初めて、強い判断が求められ、成長が促されるような気がする。

もう何十年も将棋を指してきて思うのは、安定する、安定させる、というのは相当難しい、ということだ。
私は将棋を年間約70局指しているが、調子は当日の朝になってみないとわからないものだ。
そんな時に利用しているのが、根拠の無い楽観だ。
「まあ、なんとかなるだろう!」という気持ちが、自分の実力を発揮させることに繋がるよう気がする。
ただ、本当に大事なのは、そうできるよう自分を仕向けていくことだと思う。

「切れる」という感覚は、よくわかる。
ずっと集中していると、ある時、途中で「切れて」しまい、それ以降何も考えられなくなり、悪いサイクルに入って抜け出られなくなることがある。
これは、ペース配分を考えて集中力を使っている、いない、に関係ない。
「切れる」ことを防ぐには、日頃から、趣味をやるなどして、内面に溜まっているものを吐き出していくことが欠かせない。

うまくいっていない時に比べ、うまくいっている時の方が、新しいものを受け入れられない。
うまくいっている「今」を守りたくて、新しいものをせき止めてしまう。

物事を深く考えるには、助走期間が必要だ。
物事を深く考えていく過程は、車に例えるなら、ギアが1速から2速、そして3速、4速と入っていく感覚に似ている。
車とは異なり、毎回うまく入っていけるとは限らない。
うまく入っていけるか否かは、深く考えようとしている物事が、「興味深いと思えるか否か」や「深く考える甲斐があると思えるか否か」が大きく作用しているような気がする。
うまく入って行けた時は、かなり深いところまで行くことができる。

将棋の研究や練習をするのに、時間の制約は課していない。
というのは、「1日当たり8時間!」と制約を課すと、1日に8時間やれるよう、無意識の内にペース配分してしまうからだ。

毎日新しいことを発見するといい。
もちろん、ひとつでもいい。
また、どんなことでもいい。
「今日、美味しいラーメン屋を見つけた!」でいい。(笑)

スポーツが好きで、よく観る。
スポーツは、将棋に通じている(共通項が多い)。
テニスは、それが顕著だ。
ポイントを先取していても必ずしも勝てないところが、将棋に通じている。
その世界ではアタリマエとなっていることを他の世界を通じて再認識することは、有意義だ。

実行しなかった決断については、「実行していても、現状と大きな差は生まれなかっただろう」とか「もう、そうなってしまったのだから、今さら仕方ない」と思うようにしている。

自分を信じることは難しい。
なぜならば、自分のネガティブな面を知っているからだ。
そんな時、私は、「他の人も、大して違わない(=自分のことを信じきれない)はずだ」と思うようにしている。
追い詰められた、暗中模索している時でも、このように考えることができれば、何とかなるものだ。
つまるところ、「どこまで自分を信じられるか」は、「どこまで努力してきたか」で決まる。
努力は、「いかに良いことをするか(したか)」も大事だが、「いかにやり切るか(切ったか)」がもっと大事だ。
「ここまでやった!」と思えることは、大きな自信になる。

新しい物事は、一見、たくさんあるように見える。
が、実際のところは、必ずしもそうでなく、大半は、既存の物事を別の角度で組み合わせたに過ぎない。
本当に新しい物事は、限界まで自分の頭で考えてみて初めて生み出されるものだ、と思っている。

自分には子供が二人居る。
特段教育方針というものはないが、新しい芽を摘まないよう注意している。
だから、彼らが自分の目から見ておかしなことをしても、極力非難しない。

今日私がみなさんへ伝えている情報は濃い。
なぜならば、限られた少数の人に、直接話しかけているからだ。
これと比較すると、マスメディアの情報は薄い。
なぜならば、多くの人に伝えているからだ。
情報は、伝える相手を多くすると、内容をシンプルにする必要がある。
そうしないと伝わらない。
しかしながら、そうすることで、漏れてしまうところ、それも、大事なところが少なくない。

モチベーションを維持するには、無理をしないことが大事だ。
今無理すると、中長期的に反動が来る。
無理せず、自然な歩幅で続けることが大事だ。
とはいえ、続けることは簡単でない。
自分も、かつて、サボっていたことがある。
続けるためには、健全な発散方法を見つけることも必要だ。

勝つために、得意戦法を持たないようにしている。
得意戦法を持つということは、1人でひとつの戦法を究めるということだ。
当然、その戦法は、自分以外の150人の棋士の研究対象となる。
つまり、得意戦法を持つということは、1対150の勝負をすることと同義であり、確率論において不利だ
また、得意戦法を持つことは、変化対応力の担保に支障が出る。
情報化が進み、変化が激しい今、ひとつのものにこだわり過ぎるのは、致命傷になりかねない。
しかしながら、得意戦法を持つことは、決して悪いことではなく、それはそれで有意義だ。
実際に持っている棋士も多い。
得意戦法を持つか否かは、つまるところ、その棋士の寛容さ(=自分の核となる&自分にとって絶対に譲れない考えを明確にすると共に、それ以外の考えを積極的に受け入れること)の問題だ。

若い頃に長けていたのは、暗記力や集中力だ。
今長けているのは、大局観を筆頭とする総合的な力だ。

自分の頭で物事を考えるには、相応の目標、責任、裁量が必要だ。
サラリーマンの多くが思考停止になる(=他者の思考に依存する)のは、それらが無いからだ、と思う。
それらが環境的に整備されれば、彼らも自分の頭で物事を考えるようになる、と思う。


羽生さんのお考えをもっと理解したい方への追加参考情報
勝利への執念」(インタビュー記事)
渋谷ではたらく社長の会食」(座談会動画)


habusan01

habusan02

habusan03







conversation01

conversation02

conversation03







conversation04



<関連記事>
「決断力」(羽生善治・著)を読むの巻
羽生善治さんがNHK杯で中川大輔さんから大逆転勝利した様に心が動かされる&触発されるの巻
「決断力」と「混迷の時代を往く」を再読し羽生善治さんが強い理由を考えるの巻
名人戦の対局中にサインを依頼された件に関する羽生善治さんのナマ所感に感心するの巻
「棋士羽生善治(写真:弦巻勝)」を読むの巻
羽生善治さんが出演している「未来のためのQ&A」を見て、「羽生さんに将来総理大臣になっていただきたい」旨改めて切望するの巻


▼その他記事検索
カスタム検索

トップページご挨拶会社概要(筆者と会社)年別投稿記事/2007年

この記事へのトラックバックURL