2010年09月24日

サリーの冥福を重ねて祈る

sally03一昨日の夜、妻の実家の雌犬が他界しました。
彼女の名前はサリーといい、生を受けて15年目のことでした。

私は、サリーが近頃トイレや食事が一人でできなくなっていたのを知っていましたので、「この日」が来るのはそう遠くないと思っていました。
でも、かくも早く来るとは思っておらず、いざ訃報を聞くと、激しく動揺しました。
まもなく、母(2004年)父(2006年)も「この日」が思いがけず早く来たのを思い出し、動揺は収まっていきましたが、代わりに悲しみや遺憾がこみ上げてきました。

なぜ、近親者の死は、人をかくも滅入らせるのでしょう。
このふと思いついた疑問に対し、私は三つの答えを考えました。
一つ目は、「これまで感じていた独特の高い幸福感が未来永劫得られなくなるから」です。
人は、他者とコミュニケートを重ね、関係性を構築→強化していく中で幸せを感じるものであり、相手が近親者であれば、その確率や度合いはとても高くなります。
つまり、近親者が死ぬということは、これまでその近親者とコミュニケートする毎に高確率で感じていた独特の高い幸福感が未来永劫得られなくなることを意味します。
私は、サリーからメッシー役を拝命し(←食べ物をねだられると断り切れず、いつもつい色々与えてしまいました)、これまで妻の実家に行く度「抜擢された感」(笑)に基づく掛け替えの無い幸福感を感じていましたが、もう未来永劫得られません。(涙)

二つ目は、「これまで投じた多大なコミュニケーションコストの大半が一気にサンクコスト(埋没費用)化するから」です。
その近親者との関係性が強制終了し、これまでその近親者とコミュニケートする毎に高確率で感じていた独特の高い幸福感が未来永劫得られなくなるということは、その近親者に対してこれまで投じた多大なコミュニケーションコストの大半が一気にサンクコスト化することを意味します。
私は、サリーと9年間コミュニケートしましたが、それに要したコストの大半は思い出にしかなりません。(残念なことに教訓の類はありません。涙)
余談ですが、私は、幼少の頃、ペットを飼うことを母から強く禁じられていたのですが、その主因はこのことかもしれません。

三つ目は、「生が有限であるのを強く思い知らされるから」です。
これまで長らく感じていた独特の高い幸福感が「この日」を境に未来永劫得られなくなること以上に、生が有限であるのを強く思い知らされることは、あまりありません。
私は、サリーが人間の年齢だと105才(=15才×ドッグイヤー係数)で生を全うしたことから、自分の生が折り返し地点に来ているのを強く思い知りました。

以上の正否はわかりませんが、私は当分滅入りそうです。
近親者の死はこの六年で三人目ですが、いまだ慣れません。
今はただ、サリーの冥福を重ねて祈るばかりです。(敬礼)


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