2012年01月07日

伯母から白餅、かき餅、白米、じゃがいもの詰め合わせを謹呈され、昨年来引っかかっていたことの答えが見つかるの巻

約一週間前の大晦日、自宅に大きな箱の荷物が届きました。
差出人は益子(栃木県)の母方の伯母で、中身は白餅、かき餅、白米、じゃがいもの詰め合わせでした。
私は、予想外の出来事に大そう驚きましたが、間も無く、五月に母の葬儀以来の無沙汰を詫びに行ったことへの心遣いと理解しました。
私は、感謝感激の念で胸が一杯になると共に、幼い時分、小腹が空くと、ストーブの上で焼いて、晩御飯が食べられなくなるまで食べていた(笑)かき餅をウン十年ぶりに見て、そんな私をよく叱った母と、師走になるとかき餅を作り、欠かさず謹呈してくれた祖母を偲びました。


また、私は、当時からずっと心の中で引っかかっていたことの答えが、ふと見つかった気がしました。
それは、「それでよかったのだ」ということです。
当時、私は、益子の伯母の家を訪れる前、真岡(栃木県)の伯父の家を訪れました。
祖母が一昨年の秋100才を目前に亡くなったのですが、連絡の行き違いがあり、兄も私も葬儀に参列し損ねていたからです。

今日の兄や私があるのは母のお陰であり母が母を全うできたのは祖母のお陰です。
私が祖母の逝去を知ったのは、東日本大震災の見舞いの電話を伯父の家に入れた時でした。
「私だけでも、GWに二日時間を作り、伯父の家を訪れ、祖母と最後の挨拶をしたい。
同時に、何とか、母の葬儀以来無沙汰している、終生母と仲の良かった伯母に、無沙汰を詫びたい」。
私は、伯父から電話越しに無事の旨の言葉を聞くと、こう決心しました。

伯父は、本当に自転車で訪れた私(笑)を歓迎し、祖母の霊前に招いてくれました。
そして、私が祖母と最後の挨拶を終えると、逝去のてん末を多々述懐してくれました。

私は、しみじみとした思いになりましたが、一つ引っかかることがありました。
それは、2004年に母が先に逝ったことを、祖母が終生、正確に知り得なかったことです。
祖母が、入院して間もない内、「○○(※母の名前)は見舞いに来ないのか?」と訊き、伯父が「○○は相変わらず体調が悪く、無理」と答えていたのを知り、私は言葉を失いました。

たしかに、伯父は、母の葬儀の折、「(母の逝去は)ショックが強いだろうから、(祖母には)告知しない」と明言しました。
しかし、祖母にとって母は、甘えん坊の末っ子であったことに加え、結婚後兄弟一苦労した一番の心配のタネであったことから、私は「早晩告知するに違いない」と思っていました。

そこで、私は、こう考え、自己納得に努めました。
「祖母と78年暮らした伯父のこと、何か他にも考えがあったに違いない」、と。
しかし、その後、従姉からのメールで、従姉や伯母が伯父に告知を勧めていたのを知り、頓挫しました。
私は、7年間の無沙汰を詫びると共に、本件のてん末をより正確に理解すべく、勢い勇んで伯母の家を訪れました。

伯母も、伯父と同様、本当に自転車で訪れた私(笑)を歓迎し、足が依然悪いにも関わらず、茶菓と昼飯を振舞い、母と祖母の昔話を多々述懐してくれました。
そして、私が本件のてん末を尋ねると、率直かつ真摯に多々述懐してくれました。

私は、当時、伯父と伯母の意見が最後まで交わらなかったことを知りました。
また、偶然来訪した伯母の三女の従姉が、「母の葬儀の参列に伯父宅に喪服で全員集合した際、祖母は母の逝去を直感したものの、皆を困らせないよう、敢えて積極的に問わなかったのではないか。それが、祖母の祖母足る人となりだったのではないか」と述懐し、私は改めて言葉を失いました。

けれども、今回、私は、伯母から心遣いの品を授かり、先述したように「それでよかったのだ」と思いました。
なぜなら、母は、生前遺言の如く、「自分は必ず先に逝くが、死んだら、兄弟、そして、遺った人同士、争わず、仲良くして欲しい」と、事有る毎に言っていたからです。

伯父と伯母、従兄と従姉はみな、祖母を愛し、祖母にとっての最善を尽くしました。
私は、祖母に最後の挨拶を全うし、伯父、伯母、従兄、従姉と旧交を温めました。
伯母は、私の心情を過分に汲み、懐かしく助かる品々で表意してくれました。
そして、私は、妻や兄とその品々を分かち合い、感謝感激の念も分かち合いました
天国の母も、生涯親不孝者だった私を久しぶりに褒め(笑)、喜んでくれているに違いありません。



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