2013年04月16日

ニコ生で加藤一二三九段の第71期名人戦第一局大盤解説を視聴し、天才と文化とマーケティングについて改めて気づきを得るの巻

春が来て、今年も名人戦の季節になりました。(笑)
ということで、過日私は、夕方頃早々に帰宅し(笑)、第71期名人戦第一局の大盤解説をニコニコ生放送で見ました。
解説の棋士は加藤一二三九段でした。
近年、加藤九段は、話し方に代表される独特のキャラクターと、対局場の温泉場の滝を止めた(笑)等の数多のエピソードが周知され、「ひふみん」という愛称で多くの人に親しまれています。
大盤解説の棋士の平均年齢は30代なので、御年73才の加藤九段の出演は、名人位獲得経験と通算勝数歴代二位に見る類稀な実績、そして、この国士無双の人的魅力に拠るものに違いありません。

ちなみに、私は、加藤九段を「ひふみん」と言うことはありませんし、言いたいとも思いません。
なぜなら、私が将棋を覚えた今から約40年前、加藤九段は神だったからです。
当時、加藤九段は、史上初の中学生棋士(※以後3人登場)の果ての、「神武以来の天才」と呼ばれた屈指の実力者で、早口で喋る習性は既にあれ(笑)、いつも髪はオールバックで、痩身な体に濃紺のスーツをビシッと決めてました。
その崇高な印象は今なお私の胸に根強くあり、「ひふみん」と言う人を否定はしませんが、私は言えません。
これは、ダウンタウンのお笑い番組に出て、いかに浜ちゃんに頭をドツかれても、今なお坂本龍一さんを「教授」以外呼称できないことと同じです。(笑)



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私が大盤解説を見始めた時、対局は終盤の大詰めを迎えていました。
森内俊之名人が押し気味なものの、勝負を決する、難解かつ際どい局面で、羽生善治挑戦者の起死回生の一着が待望されていました。
加藤九段は、大盤を自分の立ち位置である右横から直視し、あたかも対局者の如く”その”局面での最善手の案出に、また、着手の最善手性の検証に、それぞれ一心不乱でした。
勿論、その内容はいつもの様に早口で言語化くださる(笑)のですが、局面が殊に難解であることも手伝ってか、いつもより頭の回転に口が追いついていない格好でした。
とにかく、「もっと良い手があるのでは?」、「その手よりこの手の方が良かったのでは?」と、視聴者そっちのけで盤面を猛スピードで動かしては、結果が思わしくないと考え込み、そしてまた盤面を猛スピードで動かす、の連続でした。
しかも、森内名人や羽生挑戦者が着手を進めようと、お構いも無しに、です。(苦笑)

次第にそっちのけにされた視聴者から、クレームが寄せられ始めました。
ニコ生は視聴者がリアルタイムでコメントを投稿できるのですが、「盤面を元に戻して!」や「現局面を別画面で映して!」といったクレームがモニターに次々流れ始めました。
視聴者は初心者が過半であり、また、誰しもモニターの前にずっと張り付いて居られませんので、自然かつ尤もです。
私自身、昔取った杵柄(笑)で凡そは何とか付いていけましたが、何かでモニターから一瞬離れると、もうワヤでした。
成る程、局面が局面ゆえ、解説者の加藤九段が最善手の検討を急ぐこと、検討に集中すること、も一理あります。
しかし、生放送に限らずメディアは、また、大盤解説に限らずコンテンツは、「向こう側に居る」聞き手、読み手、見手の満足があってのモノダネであり、加藤九段の視聴者そっちのけの所作は、明らかに行き過ぎでした。
とは言え、次第に私は、加藤九段のこの所作に肯定と崇高を覚え、終いに感心してしまいました。
というのも、かつて「神武以来の天才」と称された実力者が、老いてもなお、他者の試練を自分事(⇔他人事)として逃げず、誤魔化さず、真っ向から全力で受けとめているからです。
実際、加藤九段は、103手目に羽生挑戦者が指した▲1ニ歩を敗着と断じ、正着、最善手として▲4二角を主張しました。
たしかに、将棋に限らず、物事の実力を高めるには、他者の従事を絶えず自分事として受けとめ、当事者の思考を追体験することが非常に有効ですが、加藤九段の様な一時代を築いた実力者の場合、心技体の衰えによる挫折の、更に、それによる雑言や権威失墜のリスクがあり、とりわけ公の場ではやり難いものです。
終生、自分のポテンシャルを信じ、リスクに頓着せず、実力の陶冶に専心する。
加藤九段の崇高かつ非凡な生き様に、凡人の私は、天才が不断の情熱と根気の産物であるのを改めて気づかされました。


また、私は、加藤九段のこの崇高かつ非凡な生き様が、中長期的には、将棋という日本発のオリジナルコンテンツの価値を高め、発展を推し進めるのを予感しました。
文明の発展が必ずしも文化の発展に寄与しないばかりか、凡そ堕落を推し進めるのは、人間が「易きに流れる」生き物であることに加え、構成するコンテンツの多くがそんな人間の悪習に迎合し、安直に敷居を下げてしまう、即ち、ターゲット(=対象顧客)に媚びてしまう、からです。
実際、ドラマや音楽の堕落、衰退が止まらないのは、目、耳、心が肥えていないオンナコドモに「インパクトが有る」、「取っつき易い」、「解かり易い」だけの軽薄マーケティングばかり実行し、愛想を尽かされた当然の報いです。
たしかに、加藤九段の説く将棋は、インパクトはあるものの、決して簡単でも、解かり易くもなく、とりわけ勝負の行く末や棋士の人となりにしか興味の無いファンには取っ付き難いに違いありません。
しかし、加藤九段の崇高かつ非凡な生き様に感動したファンは、以後進んで将棋の目、耳、心を肥やし、ほんの一握りは羽生挑戦者渡辺明三冠の様な天才棋士に、そして、多くは私の様な(笑)忠誠心の高いファン、やたら熱心なアマ伝道師(笑)に成るのではないでしょうか。
加藤九段の国士無双の将棋道に、凡人の私は、文化とマーケティングの肝が媚びないことであるのを改めて気づかされました。






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