2013年09月20日

外山滋比古さんの講演を拝聴し、「未知との遭遇」という自己試練に励む意義と方法を再認識するの巻

toyama01人生で一番大事なのは、「出遭い」、即ち、「未知との遭遇」だと言います。
勿論、出遭いは大事です。
しかし、もっと大事なのは、「出遭いを生かすこと」です。
後に生きない出遭いは、「『出遭いコスト』倒れ」(笑)です。
では、「出遭いを生かす」にはどうしたら良いのでしょう。
私は、とりわけ二つの方法に励んでいます。

一つは、「絶対に即スルーしないこと」です。
例えば、私はジャズが大好物ですが、出遭った直後は、延々と続く各楽器のインプロヴァイゼーション(ソロ即興演奏)に辟易しましたし、また、親友は凡そ第一印象が最悪です。(笑)
どんなヒト、モノ、コトと出遭っても、「意味不明」、「関係無い」、「ピンと来ない」、「生理的に合わない」と即断し、即スルーしてしまえば、出遭いそのものが無かったのと同じです。

もう一つは、「良い所やウケている所を積極的に見つけること」です。
例えば、私は今では音楽は何でも聞きますが、大学に入学した80年代中期は、ハードロック、ジャズ、フュージョン、YMO以外の音楽を全く聞かなかったですし、また、そうした音楽を聞くヒトをバカ、もとい、音楽オンチ(笑)だと思っていました。
しかし、当時はポップスとユーロビートが大流行りで、「ここまで世の中にウケているのだから、何か訳があるのだろう」と思い直し、薬と思って無理やり煎じて聞くようにした所、今ではマドンナも大好物ですし、FMでカイリー・ミノーグの「I Should Be So Lucky」を耳にするとペン(タイピング)が進みます。(笑)
どんなヒト、モノ、コトにも正と負、陰と陽があり、負や陰ばかりを見て、正と陽を見損なうのは、人生の機会損失と同じです。





もし、私がこの二方法に励んでいなければ、先月投稿したブログ記事、〔「半沢直樹」を第五話まで一気見し、「『半沢直樹というオナニー』が市民権を得た」と思えてならないの巻〕はあり得ません。(笑)
とはいえ、この二方法は簡単ではありません。
私は、この二方法に励んでいると、それもとりわけ苦戦していると(笑)、いかに自分が矮小で、頭の悪い人間であるか、改めて思い知らされます。

そうです。
「未知との遭遇」は己が試されるのです。
未知のヒト、モノ、コトに出遭って、「意味不明」、「関係無い」、「ピンと来ない」、「生理的に合わない」と即断してしまうのは、また、それらの負や陰の箇所にばかり目が行ってしまうのは、詰まる所、自分が知見や洞察に乏しく、無関心、狭量、不寛容だからです。
そして、本当に頭の良い人は「見ている所が違う」ものですが、それは、その人が「未知との遭遇」という試練に誠実に向き合い、自己の再認識と変革を絶やさず生きてきたからです。

だから、私は、今を遡ること凡そ二ヶ月前、英文学者の外山滋比古さんの講演(「思考力を鍛える本の読み方〜乱読のセレンディピティ」)を拝聴し、大いにうなづかされました。
はい、私も、「本を、それも、未知のヒトの本を乱読することは、未知の考えに出遭う好機であるばかりか、それにより、未知の自分に出遭う好機でもあり、オススメ」です。(笑)
ちなみに、私が外山さんの存在を知ったのは、十数年前に名著「思考の整理学」に出遭ってのことです。
私は、本書を何度も読み返しているばかりか、取り扱いが杜撰なことも手伝い(笑)、買いなおしてさえいます。
もし、私がかくも本書との出遭いを後に生かしていなければ、今回外山さんの講演を拝聴することも、また、先述の二方法に自信を持つことも、あり得なかったに違いありません。

思考の整理学 (ちくま文庫)
外山 滋比古
筑摩書房
1986-04-24


それと、私が本書を読み返すのは、「北の国から」の再放送をつい見てしまうのと同様(笑)、必ず新たな理解が得られるからです。
私は、本書を読み返す度、「思考の何たるか」と「あるべき思考の育み方」の理解を深めた喜びと、理解の依然の浅薄さを思い知らされた悲しみで、胸がいっぱいになります。
本であれドラマであれ、本当に良いヒト、モノ、コトとの出遭いが凡そ一生モノなのは、持ち前の良い所が非常に抽象的かつ普遍的である(→時を越える/TPOが不問である)上、前回の理解が次回の新たな理解の素地と機会を授けてくれるからです。
私は今後も、良い「出遭い」に恵まれた折は、授かった次回の機会を決して殺さず、必ず生かす所存です。

北の国から Vol.1 [DVD]
田中邦衛(主演)
フジテレビ
2001-12-05




★講演メモ:外山滋比古さん「思考力を鍛える本の読み方〜乱読のセレンディピティ」

私も、本を出し始めた当初は、知人に贈呈していた。
しかし、インスピレーションがあり、ある時やめた。
知人は、「なぜ贈ってこないのか?」、「お前はケチだ」など、クレームを寄こした。
私は、「知り合いの君たちには読んでもらいたくない。知らない人に読んでもらいたい」と返した。
彼らは、「君は頭がおかしい。異常だ」と食い下がった。(笑)

なぜ、私は、知人に本を贈呈するのをやめたのか。
「本は、遠くの、知らない人が書いたモノこそ、読む価値があり、近くの、よく知っている人が書いたモノは、読む価値が無い」と思うようになったからだ。
実際、兄や父が書いた小説を弟や息子が読んでも感動しない。
著者と読者は離れていなければならない。
本当に感動する本は、どこのウマの骨か分からない人が書いたモノに限る。

今、私の著書のカバーには、私の顔写真が付いている。
たしかに、私の顔写真を見て、本を買う人も居るだろう。
しかし、そういう人に限って、最後まで読まない。(笑)
著者の顔を知っている本が読者に与える面白さや影響力は、著者の顔を知らない本と比べ、少ない。

皆さん(=聴衆&読者)は、本当はこの講演会においでにならない方が良かった。(笑)
たしかに、本を読むと、つい著者に関心を持ってしまい、遭ってみたいと思ってしまう。
しかし、近くで著者を見てしまうと、高確率で幻滅するばかりか、本から得られるはずの面白さや好影響が得られなくなる。
著者は、近くで見るものではなく、遠く離れた所で思うものだ。
やはり、著者と読者は離れていなければいけない。

著者と読者が離れていた方が良いのは山と人が離れていた方が良いのに似ている。
山を見るのも、ふもとから見るのと、10キロ、20キロ離れた所から見るのとでは、見え方が全然違う。
近いふもとから見ると、面白くない光景も目に入るが、遠く離れた所から見ると、絶景しか目に入らない。
要するに、「近いモノは、反発を誘発するばかりで、好影響を与え難い」ということだ。
最近出た本が酷く、昔の本の方が有り難く感じるのも、そういうことだ。

そもそも、本を読むには知恵が要る。
読者として、私たちはめいめい、いかにして本から好影響を得るか、勉強する必要がある。
それには先ず、本を買うこと。
本当に好影響を得たければ、本は借りるのではなく、買わなくてはいけない。
「どの本を買うべきか?」
「どちらの本を買うべきか?」
お金を出して本を買えば、こう真剣に考え、頭を使わざるを得ない。
これが大事だ。

たしかに、本を買い始めた当初は失敗ばかりだ。
余りにつまらなくて、10ページほど読んで、閉じてしまう時も少なくないだろう。
ただ、それは決して悪いことではない。
つまらない本を最後まで読むのは、時間の浪費だ。
お金は後でいくらでも取り返せるが、時間は後では取り返せない。

残念なのは、多くの人が、2、3回失敗すると、本を買うのをやめてしまうことだ。
これは間違い。
ここでやめてはいけない。
「なぜ、自分はこの本を最後まで読めなかったのか?」
「なぜ、自分はこの本に限っては、最後まで読めたのか?」
失敗を繰り返したら、かくしてその原因を、ひいては対処を、真剣に考えるのだ。
すると、「端書を読んでから買うと良い」とか、「大きな書店の、みんなが群がっている所にある本は大概ベストセラーで良くない」とか、段々知恵がついてくるし、目も肥えてくる。
本は、金が許す限り、いくらでも買うこと。
そして、乱読すること。

「七転び八起き」という言葉があるが、乱読は、7冊失敗して8冊目に良い本に巡り遭えたら好成績だ。
乱読し始めた当初は、10冊読んで10冊失敗するのが通例だ。
そこで大事なのは、めげずに原因を真剣に考えること。
「なぜ、あの本は読み切れなかったのか?」
「なぜ、あの本は好きになれなかったのか?」
そうすると、自分が普段全く意識していない自分に出遭うことがある。
人は、躓きを正視、受容、思考してこそ、己を知る。

また、そうして真剣に考えていると、何かの拍子にハッと思うことがある。
それは、気軽に乱読し、本の主題や著者の主張と無関係な箇所を読んでいる最中にもある。
こうした思いがけない気づきとその出遭いの面白さこそが、読書から得られる最も重要な経験の一つだ。

これをセレンディピティと言う。
セレンディピティは、元々は自然科学の言葉だ。
自然科学では、目標を持って実験をしている最中に偶然の発見があると、それをセレンディピティと言った。
それが今では、何かを探している最中、探している以外のモノを思いがけず見つけること、もっと言えば、行きがけの駄賃の様な、無志向かつ不意に降って湧いてきた良いモノ、発見のこと、をセレンディピティと言うようになった。

先進国の発展は、主にセレンディピティに支えられている。
特にアメリカは、セレンディピティを好み、セレンディピティに夢を託しているフシがある。
アメリカには、セレンディピティと命名された町まである。

人は、セレンディピティという「未経験の知的感動」を経験すると、概して人が変わる。
私は、読書の一番の効用はセレンディピティを起こすことであり、乱読にこそセレンディピティがある、と信じている。

「身近ではなく、遠く離れている印象があるが、どこか引き付けられる所がある」。
セレンディピティを起こす本とは、このような本だ。
ただ、そんな本と出遭うのも、結果的にセレンディピティが起こるのも、詰る所偶然だ。
なので、私たちはひたすら、気軽に、下心を持たず乱読するしかない。
そして、自分の中で眠っているモノが、本の中に在るセレンディピティの種とドッキングするのを、待つしかない。

読書とは、通例、著者の知識情報を、読み手の内面へ物理的に移動させることだ。
しかし、セレンディピティは、このプロセスでは起こらない。
セレンディピティは、本の中に在るXと、読み手の内面に無自覚に在るYが共に歩み寄って起こる、化学反応だ。

ある人が、ある本の、ある箇所でセレンディピティを経験する。
すると、読書の概念が変わる。
読書は元来受動的な活動だが、セレンディピティを経験すると、能動的かつ創造的な活動になる。
自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の考えを創っていくことができるようになる。
私たちは、現代の様な高度に発達した社会では、情報を「得る側」ではなく「創る側」に成らなくてはならず、これは好都合だ。

読書でセレンディピティを起こしたければ、様々な本に触れることだ。
文学を専門にしている人が文学の本しか読まなければ、セレンディピティは起きない。
とにかく、自分の専門外の、ヨソの分野に入り、訳も分からずやること。
すると、その道の専門には成れないが、自分は何者で何に向いているか、自己発見ができる。
自己発見は、自分だけではなかなかできない。
自己発見ができれば、自分の個性が分かれば、読んだその本は良い本だ。

読書でセレンディピティを起こすのは、死ぬまで可能だ。
本当に若い人は、年を取っても頭が古ぼけない。
セレンディピティを経験し、自分の頭で考えることが習慣化していれば、80才に成っても、新しいモノが考えられる。
若い人の中には本から離れている人、離れようとしている人が少なくないと言うが、感心しない。
自分から積極的に何かを創造するには、本を乱読してセレンディピティを経験し、自分が何に向いているか、何に向いていないかを知るべきだ。

たしかに、今は本が沢山あり過ぎて、良い本を選ぶのは容易でない。
しかし、だからこそ、乱読すればいい。
判断力は、多くのモノから自分の欲しいモノを自分が選んでこそ、本当に培われる。
人から勧められたモノを選んだのとでは、雲泥の差がある。

自分のセレンディピティ経験を話そう。

一つ目は、菊池寛の本とのセレンディピティだ。
冒頭に述べた「自分が出した本を知人に贈与しない」というのは、そもそもは菊池がしていたことだ。
これは、世間の常識に反し、自分にはセレンディピティだった。
とはいえ、私より遥かに知人に自著を贈るべき菊池がなぜ贈らなかったのか、しばらくは分からなかった。
でも、ある時ハッと思った。
菊池の考えは、「車と車の間に適当な車間距離が要る様に、読者と筆者の間にも適当な距離が要るのだ」ということだ、と。
好影響を与える関係というのは、知人の様な近い関係では駄目なのだ、と。
接するべきは、近い人ではなく、遠い人だ、と。
また、それまで、私は何となく、周りの近い人に語りかける様にモノを書いてきたが、それでは駄目なのだ、と。
そうではなく、知らない人、どこの誰だか分からない人に向かって自分の考えを書くことが大切なのだ、と。
そして、私は、身近ではなく遠い所を見て、命の長いモノを書く決心をした。

二つ目は、寺田虎彦の本とのセレンディピティだ。
「頭の良い人は、学者、研究者、科学者に必ずしも適していない。それより、一般にはそういう知的な仕事に向いていないとされる、頭のゆったりした人、運動ののろい人の方が案外、学者、研究者、科学者として素晴らしい仕事を成し遂げるものだ」。
随筆で、寺田はこう述べた。
当時私は、知識を増やせば思考も高まると考えており、寺田の言わんとすることがしばらく分からなかった。
数年間、モヤモヤした。
でも、ある時ハッと思った。
知識と、モノを考える思考というのは、根本的に違うのだ、と。
知識が沢山有る人は、モノを考える必要が無いため、知識だけで無駄なく直線的に生きていこうとするのだ、と。
他方、頭のゆったりした人は、知識が無いため、自分の頭でモノを考えようとするのだ、と。
そして、良くも悪くもその進捗が遅れ気味なため、寄り道をし、道端の隅に咲いている花を見つけることができるのだ、と。
私は、鈍才も、思考を生かせば秀才に負けないことを確信した。
知識と思考が反比例の関係、対立の関係にあることを確信した。
知識とは異なり、テストで客観評価し難い思考の重要性を確信した。
当時、50才くらいだったが、人が変わったのを自覚した。
長らく英文学の仕事をしてきたが、半分、英文学の人間ではなくなったのを自覚した。

寺田の本とのセレンディピティから30年、今、思考の重要性の確信は極みに達している。
周囲を見ると、知識で生きてきた人は、50才で老化が始まり、80才に成るとモノがろくに言えないし、書けない。
同世代の数多の秀才は、みな老化した。
他方、私は30年来、思考に重点を置いた人生を歩み、知識は老化しているが、思考は老化していない実感がある。
思考を重視し、終生追求すれば、毎朝新しい思考と出遭い、年を取るのを忘れる。

三つ目は、ケンブリッジの本とのセレンディピティだ。
私は英文学に専心してきたが、英語の本を読んで100パーセント理解した自覚を持ったことが無かった。
理解できない所が必ずあり、その理由をいつも心のどこかで考えていた。
ある時、言葉の理解に関心を持っているケンブリッジの心理学者、文学者の本を手当たり次第、30冊ほど乱読した。
読んだ本の多くは、半分程度しか理解できず、また、最後まで読めなかった。
でも、ある時ハッと思った。
読者のことを本当に考えている研究書、学問書というのは存在しないのだ、と。
現在の出版文化においては、作者と出版社は確固として存在するが、読者は存在しておらず、彼らは読者を無視してきたのだ、と。
本を外国で苦労して読んでいる読者は、本当に貴重な読者だ、と。

こうしたセレンディピティは、私が系統立った、専門的な読書しかしていなかったら、経験できなかった。
何気無く、縁もゆかりも無い遠い本を読んだ、偶然の産物だ。
昨今、読書が時代遅れの様に言われるが、プロセスを勘案するに、携帯やインターネットからセレンディピティが生まれるとは思えない。
今の私があるのは、読書から多くのセレンディピティを経験し、自分がいかなるモノに向き、いかなるモノに興味を持った、いかなる個性の人間かを自覚できたからだ。
こうした経験と自覚は、振り返れば、皆さんにも思い当たるフシがあるのではないか。

乱読の概念は人付き合いにも通じる。
知人や同業者とばかり付き合っていては、セレンディピティは起きない。
人との付き合いでセレンディピティを起こしたければ、どこの馬の骨か分からない人と付き合うことだ。
そして、雑談をすることだ。
それも、「知っていること」ではなく、「考えたこと」をぶつけ合うことだ。
こうした雑談は乱読と比べると難易度は高いが、セレンディピティが生まれる好機であると同時に、個性や真理が芽を出す好機でもある。

日本で「勉強する」と言うと、「教養を高めること」や「テストに受かること」が目標に成りがちだが、これは間違い。
正しくは、「日常生活で自己を生み出すこと」、即ち、「独創をすること」。
そして、詰る所は、「社会に貢献すること」。
「教養を高めること」や「テストに受かること」は、単に虚栄心を満足させるだけだ。
本を読む人には、この自覚が欲しい。

今、私たちが行なうべきは、まだ誰も起こしていないセレンディピティを起こすことだ。
本が沢山在る今こそ、乱読すれば十分できる。
読んだ本が良い本だったか否かは、結果に過ぎない。
読書で大事なのは、本当の自分を発見し、独創をすることであり、それができれば、他の誰が何と言おうと、読んだ本は良い本だ。
そういう本には、できれば50才までに出遭いたい。
なぜなら、私自身は50才を過ぎてから出遭い、もっと早く出遭っていれば、もう少しマシな仕事ができたように思うからだ。
独創をするには、一見縁の無い、難しいモノに触れることが有効だ。

私たち日本人は、物真似が得意だ。
なぜなら、行動原理の多くが、思考ではなく、知識だからだ。
知識に依存し、知識で何とかしようとするから、行動は物真似が多くなる。
外国の真似をしているだけでは、外国より先んじることはできない。
これは、日本が対峙している大問題の一つだ。
私たちは、一日も早く、エコノミック・アニマルから脱却する必要がある。
知識ではなく思考で何とかし、独創すべきだ。
それには、先ず乱読をして、自分の中にあるモノを洗い出すことだ。
「経験」と「考え」と「知識」が渾然一体した本当の自己を発見することだ。
そして、自己を新たに創造することだ。
これができれば、これまでの自分、これまでの人とは違う、新しい世界や思考を持った自分、人に成れる。

独創をするのに正解は無いが、乱読が有効であるのは間違いない。
モノを知るだけなら、人間は到底コンピューターに敵わない。
コンピューターは人間から教わらないとモノを考えないが、人間は誰からも教わらなくてもモノを考えることができる。
人間は、他の誰もが考えなかったことを生み出す力を、即ち、個性を持っている。
然るに、自分の頭で誠実に考えれば、ユニークで独創的な考えを生み出すことができ、また、自分の人生を数段高いものにできる。
私たち一人一人が思想家、哲学者として自己発見と独創に励み、競争すれば、日本は本当に屈指の先進国に、尊敬される文化を持つ国に、成れる。


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思考力【天竺堂の本棚】at 2014年02月24日 16:11