2013年08月17日

近所の大学病院で大腸内視鏡検査を受け、思いがけず「善意の不作為者」に遭遇するの巻

組織の改革には抵抗が付き物ですが、抵抗勢力で本当に厄介なのは実は「善意の不作為者」です。
勿論、「悪意の不作為者」は、抵抗声力(笑)が非常に大きく、当初は彼らよりとりわけ物理的な意味で大変厄介です。
けれども、「悪意の不作為者」は、「悪意」の源(笑)である「改革により喪失するであろう自己利益」が「改革により獲得するであろう自己利益」よりトータルで小さいことに納得すれば、抵抗声力を同調声力(笑)に転換してくれるばかりか、改革のリーダーにさえ成ってくれます。
それに対し、「善意の不作為者」は、抵抗声力は小さいのですが、組織の長が合理的なインセンティブ(行動誘因)を設けるなど何がどうしても、終始何もしません。
しかも、通例、「悪意」の源に無頓着な上、改革の必要性や趣旨は肯定するからして、本当に厄介なのです。

なぜ、「善意の不作為者」は、自分が所属する組織の改革の必要性や趣旨を肯定するも、自分は一切動かないのでしょう。
私は、主因を専ら「成功体験の圧倒的欠如」、即ち、「分かっちゃいるけど、これまで物事を成功させた例(ためし)が無く、動けない」ということだと考えてきましたが、最近は他にもあるように考えています。
具体的には、「自分事の極小化」、即ち、「分かっちゃいるけど、新規の思考、行動、責任が億劫で、極力他人事化する」ということです。
「たしかに、思考停止と現状維持には独特の幸福感があり、彼らは、それに病み付きになっている。
一見同調勢力に見えるからして、誤解に注意し、改革の担い手として後回しにすべき」。
これが、問題のある組織で「善意の不作為者」に遭遇した時の、私の直近の基本スタンス(笑)です。

では、いかにして、「善意の不作為者」を見分ければ良いのでしょう。
これは、詰まる所「直観に委ねるのがベスト」と信じて止まないのですが(笑)、交わしたコミュニケーションの態度から推量するのも有効です。
たとえば、新たな問題が発覚した際、内容や視点に関心は示すものの、解決への関与は尻込みする。
かくなる態度の持ち主は、高確率で「善意の不作為者」です。

過日、私は、思いがけず「善意の不作為者」に遭遇し、直近の基本スタンスを遵守しました。(笑)
それは、半年ほど放置していた1300ng/mlとの大腸ガン検査(便潜血検査)の陽性反応を、重い腰を上げ(笑)、近所の大学病院で大腸内視鏡検査を受けて検証した時のことです。
詳細は文末を参照いただきたいのですが、要約すると、私は、事の成り行きで(笑)病院の既存の業務プロセスに問題(改善可能箇所)を見つけてしまい、解決案を付して看護師に指摘した所、彼女が、その内容や視点に関心は示すものの、「気づき難い尤もな考えなので、是非投書箱に投書して欲しい」と解決の関与を思い切り尻込みした為、一目散に退散した(笑)次第です。
たしかに、お客さまの投書は、組織の改革の引き金に成る可能性があり、有効に違いありません。
しかし、だからといって、組織の人間が、投書の内容をお客さまから直接聞いてもなお、お客さまに改めて投書を求めるのは、お客さまの好意を無にするばかりか、「結局、私はあなたの考えを全て真に受けている訳ではありませんよ」とか、「結局、私はあなたの考えと心中するつもりはありませんよ」とか、「結局、私は今の自分も組織も変えるつもりはありませんよ」と言っているのと同じことです。
かくなることを悪気無く、自然にできる人は「善意の不作為者」に他ならず、深入りが禁物なのは勿論、遭遇即「三十六計逃げるに如かず」です。(笑)

今から20年程前、通販会社のニッセンが、コマーシャルで「見てるだけ」という言葉を流行らせました。
たしかに、商品を「見てるだけ」のお客さまは困りものですが、お客さまの話、否、他人(ひと)の話を「聞いてるだけ」の組織人はタチが悪いに違いありません。


 



★ご参考:近所の大学病院で思いがけず「善意の不作為者」に遭遇した時の詳細

〔1〕検査医が、内視鏡検査で私の大腸に大きさ8ミリ程のポリープを見つけ、切除する。

〔2〕2週間後、私は、切除したポリープの病理検査結果を聞きに、改めて病院を訪れる。

〔3〕担当医が、「検査結果は良性だが、残っている根本の部位がガン化しないとも限らず、半年から一年後に再検査して経過観察することが望ましい」と言う。

〔4〕引き続き、担当医が、「再検査の予約は今この場なら一年先までできるが、今この場で予約しないと、改めて再診した時でないとできず、テマヒマカネが余計にかかる」と言う(→今この場での予約を勧める)。

〔5〕私は、一年後の好都合日は当然不明だったが、変更が可能なことと、今この場で予約しないとテマヒマカネが余計にかかることを憂慮し、勧めに応じる。

〔6〕担当医が、再検査の手続きを完了させると共に、「(来年の)検査の前日と当日に服用する下剤を今日持ち帰ること」と言う。

〔7〕該当の下剤は複数種類あり、かつ、使用方法が個別独特である(→薬剤師が紙を使いながら細かく説明してくれる)為、私は、再検査の間際での受け取りを希望する。

〔8〕担当医が、「その様な(下剤の)受け取り方は前例が無く、可能かどうか分からないので、ナースステーションで看護師に相談して欲しい」と言い、作成した診察明細と処方箋を手渡し、診察室からの退出を促す。

〔9〕私は、ナースステーションに出向き、受付に居た看護師に〔7〕を改めて話す。

〔10〕横に居た看護師(笑)が、「そういうことになっている」、「(同じ様に再検査する患者は)みんなそうしている」と拒絶、抗弁する。

〔11〕私は、「過去に前例が無いことと他の患者が従ってきたことは、今回も踏襲すべきことの合理的な理由に成り得ない」と抗弁する。

〔12〕横に居た看護師が、「使用方法の説明を来年の再検査の間際で聞きたいのなら、その時に院内薬局へ電話して聞けばいい(→だから、今日ひとまず下剤は持ち帰れ」)と抗弁する。

〔13〕私は、「どうせ別棟の地下に在る院内薬局へ出向いて持ち帰るのであれば、そこで顔をつき合わせて説明を聞きたいし、その方が電話で聞くより遥かに理解も早い。幸い、この病院は自宅から近く、再検査の間際に改めて来るのも、そう苦ではない。それに下剤も、使用期限が長いとは言え、使用する一年前に受け取り、わざわざ古くして使用する必要はないはず。そもそも、本日の受け取りをかくも強いるのは、そちら(=病院)が、本日の『診察と処方箋の発行』と『処方薬の提供と使用方法の説明』と『診察料金の精算』という、そちらの業務プロセスを同期、処理しておきたいからに窺える。業務や組織の都合を優先したい気持ちは分かるが、他の選択肢を用意せず、一方的に強いるのはおかしい」と抗弁する。

〔14〕受付の看護師が、破顔し、小さく頷く。

〔15〕横に居た看護師が、「『処理』だなんてことは無い」と捨て台詞を吐いて(笑)、後方に下がる(→別な用事をしながら、引き続き耳をダンボにしている。笑)。

〔16〕私は、「医療もサービス業であり、過剰や不合理にならない範囲で、お客である患者の目線を重視すべきだ。それには、既存の業務プロセスを遵守するだけでなく、マネジメントや経営の発想で、組織全体で見直すこと、改善することが欠かせない。そうしてお客さまの満足を高め、同時並行的に、みなさんの様な現場でお客さまと直接接する人の目線も重視し、みなさんの『働く』満足も高める。この様な適切なマネジメント、経営が実行されれば、組織も儲かるし、みなさんも儲かる(笑)はずだ。逆に言えば、組織が儲からず、みなさんも儲からないなら、それは、患者の目線も現場で働く人の目線も等閑にされているということだ」と言う。

〔17〕受付の看護師が、「仰ることは尤もであり、思い当たる所もある(苦笑)。では、今回のケースはどうすれば良いと思いか」と訊いてくる。

〔18〕私は、「思いつきだが、下剤の受け取りを予約当日にするか後日にするかはオプション(選択肢)にして、後日を希望する患者には会計が『預り証』の類を発行したら良いと思う。精算が当日に済めば、院内薬局も会計も特段支障は無いと思う」と言う。

〔19〕受付の看護師が、「その様な考えや発想はこれまで全く無く、現場ではなかなか気づき難い。(この)病院は今丁度、こうして新しいキャビネットを導入するなど、患者さんの満足を高めようと努力している。ついては、各階に投書箱が設置してあるので、是非その考えを投書して欲しい」と懇願する。

〔20〕私は、落胆すると共に、彼女が「善意の不作為者」であると判断する

〔21〕間髪入れず、私は、「今述べた考えはそう大した内容ではなく、また、今述べた以上でも以下でもないので、改めて文書にして投書するのは正直気がひける。本当に尤もだと思うなら、定期的に実施されているであろう部内ミーティングであなたが遡上に上げればいい。何だか面倒な話をしてしまった様で申し訳ない。はい、下剤は今日、仰せの通り、取りに行って持ち帰ります」と言い、一目散に立ち去る


★追記1(2013年8月18日):本記事を読んでくれた友人医師とのメールでのやり取り

> 大学病院という前近代的な組織の中では
> 看護師の発言力は非常に小さく、
> 「お客様」である患者さんの声の方が
> 遙かに影響力があり、かつ業務改善に有効であることを
> 当該看護師さんは知っており、
> そのため堀さんに面倒な依頼をお願いした、と私は思いました。

ブログ記事の感想、並びに、受付看護師の心情推察を
ありがとうございます。

記事内でも述べましたが、私も、「お客さまの投書(直接の声)」が
組織改革の引き金になり、相応に有効である(推進力がある)のは、
理解しているつもりです。
このことは、病院に限らず、営利組織ならどこでも同じだと思います。

私はこれまで組織改革に多々携わってきましたが、
組織改革で詰まる所問われるのは、
改革の合理性の高さや妥当さではなく、
発案者や推進リーダーの「改革(実現)に対する異常な主体性」
と「現状(肯定&維持)への異常な危機感」だと思っています。

なぜならば、改革が本当に実現するか否かは、
経営と同様、実際の所、やってみないとわからないからです。
改革の本当の実現は、代替策が利害関係者の過半に
持続的に支持され、根付くことを意味しますが、この場合、
彼らが改革を支持する根本要因は、理性ではなく感情です。

これは、不適切な例かもしれませんが、
子どもが親の言いつけに従って受験勉強に励むのは、
「良い学校を卒業した方が生涯収入の向上確率が高くなる」
といった合理的な理由より、
「自分を捨ててここまで自分の為にしてくれる親を落胆させたくない」
といった感情的な理由が遥かに大きいことに通じます。

私が受付看護師を非情にも(苦笑)「善意の不作為者」と断じた一番の理由は、
「改革(実現)に対する主体性」と「現状(肯定&維持)への危機感」が希薄なまま、
持ち前の善意のもと、改革を合理的に推進しようとしたことにあります。

たしかに、もし私が、彼女の懇願に従い、投書していたら、
今回露呈された問題が改革の遡上に上がり、
解決が試みられる確率は高まったでしょう。
しかし、推進リーダーの「異常な感情」を伴わない合理的な解決策は、
日の目を見ることはあれ、根付くことは無かったのではないでしょうか。


★追記2(2013年9月3日):本記事を読んでくれた友人ビジネスマンとのSNSでのやり取り

<友人>
一年前に下剤を渡さなければならないのは滑稽ですが、余り改善を受け入れる風土がないのだろうな。とか、看護士に必然性が感じられないのだろうなとか、想像してしまう。
何より不作為者に自分がなってないか、気をつけないといけません^^;;

<私>
お考えは完全同意です。
たしかに、一年後の検査に使う下剤を、それも、各々水をいくら位入れ(溶かし)、いくら位の量をいくら位の回数で服用するなど、服用が一筋縄でいかない下剤を、今日明日服用する薬と同様に考え、患者へ本日持ち帰らせることを何とも思わない風土には恐れ入りました。
ただ、それは、組織として病院がカイゼンを志向していないこと、志向する必然性(合理性/切迫性)が無いことの一てん末に過ぎず、こちらの方こそ恐れ入りました。
やはり、病院は依然、「人を見ている」のではなく、「病気を見ている」のでしょう。
病気を治す技術は日々カイゼンされているのに、病気の持ち主である人とうまく付き合う技術は全くカイゼンされていない感があります。
とはいえ、この様に、問題そのものばかり注視し、問題を抱えている人の心情(変化)をスルーしてしまうのは、私たちの専門領域でもよくあることではあるので、お互い、本件を対岸の火事にしないようにしませう!




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