2015年11月27日

フィギュアスケートのロシア大会を見、ソトニコワ選手の演技につくづく感動し、かつ、日本女子フィギアの復活の当面の無さとその所以を再考するの巻

「自分より優秀な人だけを採用する」。
私は今、Googleのラズロ・ボック人事担当副社長が書かれた「ワーク・ルールズ!」を読んでいるのだが、ラズロさん曰く、本事項こそGoogleの採用方針の核だという。
たしかに、社会も、会社も詰まる所、生み出す果実の質量は構成する「人」で決まるものであり、年々倍々ゲームで成長しているGoogleのこと、言われてみれば成る程だ。
人事担当者に限らず、既存全社員が積極的にリクルーターを兼務し、自分より何か一つでも優秀な能力の持ち主だけを雇い入れていれば、社員偏差値は年々向上するに違いないが、倍々ゲームの近因は、そうしてリクルートされたルーキー社員のリリーフ(?・笑)効果もさることながら、「自分より優秀な」彼らの仕事ぶりを間近で見、触発された既存社員の底上げ効果だろう。



二つ目のパラグラフで述べるのは些かせっかちだが(笑)、私がこのブログ記事でのたまいたいのはこういうことだ。
要するに、私たちは、良くも悪くも外部環境に容易に同化(伝染)/順応し、かつ、そもそもリソースが知れているからして、「良いヒト、モノ」を「見るべし」、「見せるべし」である、ということだ。
「良くないヒト、モノ」を「見る」のは、生来の能力と気概を殺ぐのに等しく、極力回避すべきだ、ということだ。
そして、「良くないヒト、モノ」を「見せる」のは、その後押しをする可能性/リスクがあり罪深い、ということだ。

ちなみに、この罪深さにおいて日本屈指(笑)の一人は、恐れながら秋元康さんだろう。
私は秋元さんを世紀末のトリックスターに窺える時が少なくないが、秋元さんがおニャン子やAKBを世に出し、そして、見事オーソライズされたことは、「隣の普通の姉妹でもアイドルに成れるんだ!」と、ひいては、「あれで良いんだ!」、「ダメな自分でも良いんだ!」との、歪んだ過剰な現状自己肯定を旨かつ是とする不毛な成長(自己変革/自己プロデュース)不要論とその国民的合意(コンセンサス)の形成を、更には、日本一億総不活躍社会の形成を、間違いなく後押ししただろう。

勿論、本件は秋元さんの本意ではないだろう。
秋元さんの本意を斟酌するに、「隣の普通の姉妹でもアイドルに成れるんだ!」は、あくまで「アイドルに最適な身体に恵まれずとも、また、ひと目で誰もが分かる長所に恵まれずとも、対象マーケットが望み、かつ、既存アイドルが手付かずの価値を、即ち、競合優位を、自分が戦略的かつ一心不乱に創造できれば」との付帯条件を要するものだろう。
「どんな人でも、時代とそのお客と頭を使って全身全霊で寝れば、相応の成功と幸福を享受できる」。
秋元さんがおニャン子やAKBというエンタメコンテンツ(商品)を通じて私たちに投げたメッセージは、本当はこういうことだろう。

秋元さんの高邁な思想は分かるし、強く共感する。
が、おニャン子やAKBを介したやり口は、何事も自分に好都合に考えてしまう、良くも悪くもソコソコ豊かで満たされている(≒問題/危機/成長/目標意識の乏しい)現代日本人にはそもそも無理筋で、先述のコンセンサスに発火点とお墨付きを与えたのが実際だろう。
やはり、商品の作り手、売り手が私たち凡人に「見せるべき」は、また、私たち凡人がお手本、ロールモデルとして「見るべき」は、「良い人、モノ」であり、またそれが、多様な人間の混在する一般社会には低リスクだろう。

ここでようやく本題というか、本ネタ(?・笑)である。

過日、フィギュアスケートのロシア大会を見た。
ロシアの新鋭メドベデワ選手、グランプリシリーズ出場2年目のラジオノワ選手の、各々15、16才とは到底思えぬ確かな技術と艶めいた演技、そして、2位、1位のリザルトにはつくづく感心したが、2014ソチ五輪ゴールドメダリストのソトニコワ選手の、これまた19才とは到底思えぬばかりか、もはやアスリートを超え女優とも言える圧倒的な演技には、ソチ以来初めての試合出場で彼女たちほど技術点が稼げず(→演技構成点は彼女たちより稼いだ)、お立ち台に3番目に立ったのがどうでも良くなるほど、つくづく感動してしまった。

最も感動したのは、試合ではなく、エキシビションでの「白鳥の湖」の演技だ。
ソチ以降の試合欠場は足の怪我に因るものとのことだったが、ゴールドメダリストの頂点から控え選手の最下点に急降下した2年間の無念を心身双方へ肯定的にフィードバックした跡が、そして、アスリートとしてだけでなく女性として、人間として格段に成長した跡が、ありありと窺える正に圧巻の演技で、メドベデワ選手とラジオノワ選手、更には、本大会に不出場のロシア一軍選手と、明らかに役者が違った。

 
(※)↓からロシア語版を抜粋
http://skating.livedoor.biz/archives/51937995.htm
成功と挫折、それも、頂点と最下点のそれを実体験した人間、及び、その復活劇は、正に「良いヒト、モノ」であり、とりわけ「見るべし」、そして、「見せるべし」だろう。
しかし、本大会を放映したテレビ局をはじめ、日本のメディアの殆どが主だって報じた女子選手は、専らお立ち台にも立てなかった本郷、永井、加藤の日本人選手で、テレビ朝日のリザルトページにはソトニコワ選手のプロフィール紹介のリンクさえ貼られていない始末だ。
それにそもそもフィギアスケート観戦の師匠である私の妻(笑)でさえ、本大会でソトニコワ選手が復活するのを知らされていなかった。

なぜ、日本のメディアは本大会において、「良いヒト、モノ」を積極的に見せなかったのか。
そして、敢えて付言するが、「良くないヒト、モノ」をあたかも「良いヒト、モノ」であるかのように見せたのか。
主因は視聴率とナショナリズムへの迎合なのだろうが、これは先述の通り、現世と次世代の芽を摘み、かつ、禍根を遺すリスクがあり罪深い。
誤解と非難を承知で推断すれば、日本の女子フィギアが失速しているのは、浅田真央選手の劣化コピー選手ばかりが輩出され、「ポスト浅田」が不発に終わっているからだ。
今後も日本のメディアが、私欲と保身を優先し、「良くないヒト、モノ」をあたかも「良いヒト、モノ」として、そして、憧憬、志向すべきお手本、ロールモデルとして見せ続ける限り、浅田選手のような突然変異の天才が個人的に舞い降りでもしなければ、ファンとして遺憾だが、日本の女子フィギアの復活はないだろう。



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