2017年11月03日

ロードバイクで荒サイを走り、「あおり」問題の根本解決を考えるの巻

「泣く子と地頭には勝てない」という言葉があるが、自転車乗りからすると「泣く子と雨には勝てない」である。(笑)
過日、ようやく雨が止み、私はロードバイク荒川サイクリングロードを走った。
老化を防止すべく、もとい(笑)、運動不足を解消すべく、いつもの50キロをいつも通り2時間かけて走ったのだが、一つ嬉しいことがあった。

「トレインを組みませんか?」と、未知のロードバイク乗りからお声がけいただいたのである。
それも、「私より遥かに高経験値に見て取れ、かつ、実際強い(=速い)人から」、「初めて」お声がけいただいたのである。
「トレイン」の意味はググっていただくとして、要するに私は、一ロードバイク乗りとして認められ、「一緒に走りませんか?」と誘われたのである。

たしかに、当日の荒サイは名物の強風で、ロードバイク乗りが交互に風よけし合って走るのは尤もだった。
しかし、先述の通り、お声がけの主は、私と違って強虫である。
私は、この初体験に吃驚するも即感激したが、同時、「なぜ彼はひと目弱虫の私と走りたいと思ったのか」自問した。



誤りと自惚れ(笑)を怖れず妄想したところ、彼の心中は以下で・・・

「アイツ(=私)以外、一緒に走れる(=練習できる)ロードバイク乗りが見当たらない」。

「アイツは弱虫だが、マナーは悪くない。弱虫なりに頑張ってもいるようだし、自分(の練習)の助けにこそなれ、邪魔にはならないだろう」。

・・・私は以下(改めて)気づかされた。
【1】
人は、何らかで自分より弱い人を必ずしも即ダメ出し→排除(攻撃)しない。
肯定的に見て取れる態度や心構えがあれば受容もするし、時と場合では協同さえする。
その方が、自分が実質的、かつ(または)、精神的に助かるからである。

【2】
だから人が意識、無意識を問わず、何らかで自分より弱い人を即ダメ出し→排除してしまう際は、独善や不遜はさておき、肯定的に見て取れる態度や心構えが相手にないか、あっても肯定するに足りない可能性が高い。
さもなくば、自分が実質的、かつ(または)、精神的に救われないからである。

【3】
だから、我々は、絶えず己の弱さを意識し、かつ、決して開き直らないこと、である。
実力の向上とその試行錯誤に意欲的に励むこと、である。
そして、(存在して然るべき)強者が肯定するに足る態度や心構えを会得、忘れないこと、である。
その方が、強者に即ダメ出しされ難いのは勿論、受容、更には、協同(→育成)してもらえる可能性があり、結果的に自分が強くなる、助かる、からである。

昨今、悲劇をきっかけに、自動車の「あおり」運転が議論になっている。。
「危険この上なく、けしからん」。
「厳罰化すべきだ」。
見聞きする論調の過半は以上だが、いずれも尤もである。
だが、ご承知の通り、正義や正論だけで社会が良くなるなら、それこそ警察は不要である。
ドライバー個人の「心のゆとり」が減る一方の今、これだけでは「あおり」は増えることはあれ、減らないだろう。

また、この手の話は、同時に「個人の権利(の侵害&保障)」が持ち出され、余計ややこしくなるものと相場は決まっている。
現在の法体系のもとでの「個人の権利」論は、所謂「ハラスメント」や「ポリティカル・コレクトネス」の隆盛が明らかにしているように、加害者と被害者の過失を社会全体最適的に認定するのには役立つが、専ら善意の個人をいたずらに萎縮させ、社会が良くなるのには役立たないものと、これまた相場は決まっている。
個人の問題に「権利」が持ち出され、真に助かるのは、それが生業の弁護士だけである。

少し話は脱線したようだが(笑)、要するに私が言いたいのは、「正論」だけでは、「個人の権利」論だけでは、「あおり」問題は解決しない、ということである。
「べき論」という「『北風』論」だけでは、個人の問題は基本解決しない、ということである。

では、ドライバーはあと何をすべきか。
過日、私がサイクリングでトレインを誘われたように、「一緒に走りませんか?」、つまり、「あなたと走りたい!」と他のドライバーが思わず声がけしたくなる、「スマート」、かつ(または)、「真面目」に見て取れる運転態度や心構えを会得、忘れないことである。

そもそも、なぜドライバーは時に「あおる」のか。
「時に」でなく「いつも」や「基本」のドライバーはサイコパスで除外するが、実体験を含め考えるに、詰まる所、先述の私の気づきの【2】である。
自分の運転のペース、ルールが乱され、今後の実走行、精神状態に危うさを覚えるから。
そして、対象車両の視界からの排除を決心するから、である。

たしかに、この決心と具現は断じて肯定されることではない。
しかし、身勝手ではあるが、最中のドライバーからすると、これらは自衛手段の意味合いもなくはない。
加害者を「『北風』論」一辺倒で、被害者目線かつ一方的に審判、糾弾しても、潜在加害者個人への抑止効果は限定的で、私は先の「『南風』論」とのミックスを唱える次第である。
「個人の問題」の根本解決には、一見感情的で実は合理的な「『南風』論」が有力であり、また、欠かせない。



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