2017年12月19日

羽生善治の第30期竜王戦勝利&「永世七冠」達成の理由を妄想するの巻

私は「羽生ヲタ」である。
依然、日本将棋連盟は大嫌いだが、羽生善治は大好きである。
余りに好き過ぎ、尊敬し過ぎて、総理大臣になっていただきたいとさえ思っているのである。(笑)

その羽生が、このたび第30期竜王戦で渡辺明竜王を下した。
羽生が初めてタイトルを取ったのはこの「竜王」で、19の時である。
それから約30年経ち、羽生はこのたび15年ぶり、7度目の「竜王」になった。
そうである。
遂に、最後の「永世」タイトルである「永世竜王」の有資格者、「永世」全7大タイトル有資格者である「永世七冠」、になったのである。

本件は「羽生ヲタ」、かつ、対象は違えど同世代のビジネスプレイヤーの私にとって感無量だが、同時に、様々考えさせられる。
ついては、昨年の三浦弘行九段の一件以来、将棋、および、その関連の論考を控えてきたが、下手の横好きを棚に上げ(笑)、以下の二事項のみ改めて論考、もとい、妄想(笑)してみたい。

【Q1】
なぜ羽生は、「竜王」に返り咲けたのか?
なぜ、この第30期竜王戦を勝利できたのか?


【Q2】
なぜ羽生は、「永世七冠」になれたのか?
なぜ羽生だけが、全てのタイトル、全ての対局形態、で持続的に強いのか?




【A1】
「挑戦者らしく積極的にいった所が功を奏した」。
羽生はこの旨、直後の記者会見でこたえたが、「半分正解、半分不正解」である。



先ず、なぜ「半分正解」か。
シリーズ全体を通して、羽生が前例の無い、もしくは、あっても稀少の「獣道」を選好&先攻し、それを渡辺が受ける、との展開に持ち込んだからである。
また、羽生のそれが、コンピュータ将棋の申し子の若手と見間違うほどの、「えっ、ここでそう行きますか?」との驚嘆を禁じ得ない、良く言えば「思い切りの良い」、悪く言えば「露骨(プロ的にひと目筋悪)な」ないし「際どい(プロ的にひと目無理筋)」仕掛けによるものだったからである。

では、なぜ「半分不正解」か。
羽生の言う「積極的にいった所が功を奏した」のは、以下渡辺本人も認めているが、直近の渡辺の不調、更には、「自信」喪失、が大きいからである。

って相居飛車では矢倉が当たり前だったので「△33銀が▲45桂に当たる」がデメリットだとは子供の頃から考えたことがありませんでしたが「矢倉は終わった」も一理あるのかと思わされました。
http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/31b8f7d0053ef7ce91ebe9b1a5d6ab5b

最初の図を見た目で判断してしまったのが敗因ですが、以前はそれでなんとかなっていたことも多いので、その力が落ちたか、現代将棋に自分の古い感覚が付いていけてないか、といった感じでしょうか
http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/5d11996188bf88b38097057cbca25429

うーむ、やはり矢倉は古い戦法なんでしょうか。桂と引き換えに歩を2枚もらうような仕掛けが普通に見られるようになったのは以前にも書きましたが、自分は昔ながらの桂得のほうが大きい、という考えからなかなか離れられません。なので桂で攻められても怖くない、という考えになってしまい、雁木の流行にも懐疑的だったんですが、時代についていけてないですね
http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/b164785f4739eb967782c2deb3c32a6a

羽生がこの第30期竜王戦を勝利できたのは、そして、念願の「竜王」に返り咲けたのは、究極、「相手が良かった(⇔悪かった)」からである。
この竜王戦は、羽生が勝った、と言うより、渡辺が負けた、のである。

たしかに、羽生も調子は良くなかった。
というか、羽生的には完全に悪い部類で、直前の王座戦では、もはや指定席ともいうべき24期在位の王座を、緒戦ウッカリ早投げするなどして、中村太地挑戦者に1-3で奪取されている
加えて、そのまた直前の王位戦では、菅井竜也挑戦者の、用意していた正に「術中(研究の構想&手順)」にはまり、良い所が殆ど無いまま1-4で敗退している
羽生はこうして立て続けこっぴどい目に遭い、当時、「『衰え』&『限界』説」が公然とささやかれていたものである。

しかし、羽生は、渡辺と根本の部分で違っていた。
勝ち負けという「結果」的には明らかに調子を落としていたが、「自信」は失っていなかったのである。
自分の将棋の組み立て方や思考に対する信頼は揺らいでいなかった、揺らがさなかった、のである。
そして、この違いを察した将棋の女神が、渡辺には「やることなすこと裏目」と負けを、羽生には「やることなすこと幸便」と勝ちを、ぞれぞれ割り振ったのである。

「(当時、一足先に羽生陣へ竜を成りこむも、攻めを加速させるどころか、両取りの角筋に絶えず悩まされた。かえって)竜が盤上にいるために(攻め筋が)崩壊している」。
渡辺はこの旨、感想戦で羽生へ、また、メディア越しに我々ファンへ、精一杯作り笑いしてこたえた。
「竜王」剥奪直後の、この渡辺のメディア&ファンサービスは、立場をわきまえた立派なものだったが、正直者で根の良い渡辺の心中は、拝察するに余りあるものがあった。



渡辺の強さの源泉は、正直者特有の、良くも悪くも空気を読まず、既存の秩序や実績に物怖じしない、不遜な「自信」である。
数多の棋士の中で、唯一渡辺が羽生と戦績を伍すのは、他の棋士と異なり、羽生の実力を誰より合理的に認めつつ、羽生そのものには物怖じしない実力と「自信」があったからである。
さしもの渡辺も、「自信」を失っては、作り笑いで道化を演じるほかない。

ただ、渡辺から「自信」を奪い去ったのは、やはり羽生である。

第四局の76手目、羽生は解説や検討陣の予想を裏切り、△5六飛の代わりに△6六飛と指した。
それまで、コンピュータの評価値は羽生に1,000点台で大きく傾いていた(=優勢を示していた)が、この手でが0(=桁)が一つ落ちた。
結局、本局も羽生が勝った訳だが、△5六飛なら、その後もっと短手数、かつ、分かり易く、勝ったのであった(ようだ)。

なぜ、羽生は△6六飛を選んだのか。
「△5六飛は▲3四銀のときに良い手が見えなかった。本譜は仕方ないと思った」。
羽生は感想戦でこうこたえたが、これも「半分正解、半分不正解」(笑)である。
全くの正解は、そうである。
「これで、『なんと、羽生はここまで考えているのか!』と、渡辺の『自信』の息の根を止められる可能性があるから」、である。
勿論、これは無意識に違いないが、羽生自身、記者会見で「苦労し、(シリーズを通して最も)印象に残っている手」と認め、確信犯がうかがわれる。(笑)

羽生のこの手口(笑)は、今に始まったことではない。
数多の棋士が羽生の「ライバルリスト」から一人、また、一人とこぼれ落ちていったのは、本局の渡辺のように、この手口で「自信」を、ひいては、戦意を、それぞれ羽生に奪い去られたことが大きい。

そもそも、「自信」とは何か。
最たるは、現場の要所の、羅針盤の効かない「獣道」において、進むべき指針を脳内に浮かび上がらせる究極の原動力である。
プロフェッショナルにとって、「自信」の喪失は致命傷である。


【A2】
ここで一つ、疑問が湧く。
「なぜ羽生は、菅井と中村に、タイトルは奪い去られても、『自信』は奪い去られなかった、失わなかった、のか?」

この答えこそ、なぜ羽生が、羽生だけが、タイトル、対局形態を問わず、持続的に強いのか、の根因である。
そうである。
先述の通り、羽生にとって勝ち負けはあくまで「結果」だから、である。
羽生は、「結果」を専ら「プロセス」の帰趨と割り切るから、である。
散々な、不本意な「結果」に遭っても、それと自己を安直に結び付けないから、である。
原因を、実行した「プロセス」、および、その「選択ミス」や「精度不良」に留め、感想戦という検証の場がお開きになれば、「結果」共々「『ジ・エンド』にする」&「積極忘却する」から、である。

では、なぜ羽生は、「結果」を「プロセス」の帰趨と割り切るのか。
また、割り切れるのか。

一因は、「さもなくば、網羅的かつ突き詰めて考えてしまい、人として戻って来れなくなる、『狂気』に押し潰されてしまう」との達観があるから、である。
本事項については、いよいよ長くなる(笑)ため、補足は別の機会にしたい。

そして、肝心のもう一因は、羽生にとって将棋は「宇宙」だから、である。

「宇宙」は先ず、行けたに越したことはない。
だが、「行けた」、「行けなかった」の「結果」は、詰まるところ神の恵みで、アンコントローラブル(Uncontrollable)である。
他方、航行シミュレーションや自己鍛錬等々、「結果」と相関する事前準備の選択と実行(の品質)、即ち、「プロセス」は、コントローラブルである。

また、「宇宙」は、未来は分からないが、当座は将棋と同様、その果て、真理は解明され得ない。
「パズル」は、「解けた」、「解けなかった」の「結果」ではなく、将棋と同様、「結果」に近づく「プロセス」にこそ醍醐味が在る。

そうである。
羽生にとって将棋が「宇宙」なのは、共に究極かつ最高のパズルだからである。
そして、だからこそ、羽生が将棋で満喫し、かつ、振り返るべき、割り切るべきは、「結果」ではなく、専ら「プロセス」なのである。

羽生が将棋を指すのは、見果てぬ将棋の真理との邂逅なのである。
「(自分は)将棋の本質をまだまだ分かっていない」。
「盤上はテクノロジーの世界。日進月歩、かつ、その使い手共々無常ゆえ、テクノロジー自体、および、その当時の功績に固執しても無意味」。
羽生はこの旨、記者会見でこたえ、驚かれたが、これはそういうことなのである。

[質問者(NHK栗原氏)]
先程お話の中で「将棋の本質がまだ分かっていない」というお話がありましたけども、羽生さんにとって目指したい将棋の本質っていうのは、どういったものなんでしょうか?

[羽生]
そうですね、なかなか具体的に言うのは難しいんですけど、ただなんかこう、やっていく中で、「これは今までまだ知らなかったな」とか、「これはこういう仕組みでできていたのか」とか、まあそういう何かしらの発見とか、進歩とか、まあそういうものを(将棋を)指していく中で、感じ取れたら良いなあ、という所です。

[質問者]
これだけ勝ちを続けている方が言う「将棋の本質」というのは、これだけタイトルを手にした羽生さんだからこそ目指したい「将棋の本質」というのは、どのようなものなのでしょう?

[羽生]
あっ、そうですね、えーと、どう言ったら良いんでしょうかね。
将棋の世界は、基本的に長い歴史のある伝統的な世界なんですけど、盤上で起こっているのは基本的にテクノロジーの世界なんで、だから日進月歩で、どんどんどんどん前に進んでいっているわけです。
だから、過去に「こういう実績があった」とか、「ここで(こう指して)勝てた」といっても、それはこれから先に何か盤上に意味があるのかと言われたら、あまり無くて、常にそういう最先端の所を探求していく、っていう気持ちでいます。

羽生の言う将棋の「本質」とは「勝利の原理」であり、ひと言「究極のコツ」である。
また、「テクノロジー」とは「技術論」、「方法論」である。
「(自分が将棋を始め、ハマったのは)結果が白黒ハッキリ出ることと、いくらやってもコツが分からなかった(し、依然分からない)こと」。
羽生はかつてインタビュー番組でこの旨こたえたが、永世七冠となった今も変わっていないのである。

否、変わっていないどころか、コンピュータ将棋に触発され、磨きがかかっているのである。
「これまで自分たちが『これだ(これしかない)』と断定し、深め、極めてきたつもりの『コツ』が、いかにバイアスまみれで不合理か、いかにまだ開拓、カイゼンの余地が大アリか!」、と。

羽生は、将棋という宇宙を、かれこれ四十年、その果てを探し、遊泳しているのである。
羽生は、相手を見(=特定し)、「その」相手と対局しているのではない。
相手の遥か向こうの、宇宙の将棋の女神と対局しているのである。
だからこそ、羽生は、羽生だけが、いかなる相手であろうと、いかなるタイトル、対局形態であろうと、持続的に強いのである。



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