2018年04月02日

「高嶋ひでたけのあさラジ!」の最終回を聴き、長寿商品の条件と既存顧客の義務を考えさせられるの巻

3月30日の朝、予定通り「高嶋ひでたけのあさラジ!」が終了した。


パーソナリティを全うした高嶋秀武アナは、中年以降、正に朝のラジオの絶対的「エース」ならぬ「顔」と成り、凡そ四半世紀に渡り朝を彩ってくれた。
高嶋は依然アナウンサーとして脂が乗っているが、御年75歳でもあり、「朝の顔」を演じるのも、また、所謂「帯番組」を担うのも、残念だがこれきりだろう。

私が高嶋を見知ったのは、小学生時分、「大入りダイヤルまだ宵の口」である。
しかし、記憶は殆どなく、「オールナイトニッポン」と違ってリスナーでもなかった。
記憶がない以上不正確ではあるが(笑)、幼い私にとって高嶋は「寅さん」だったのだろう。
高嶋の、作家の原稿を棒読みしない、絶えず普遍かつ自分の言葉へ置き換える、当意即妙かつ粋な喋りと間(ま)は、渥美清の寅次郎に似て、不条理と絶望を思い知ってこそ堪能できるというものである。


「あさラジ」のリスナーに高齢者が多かったのは、彼らの多くが早起きなこと、また、高嶋が「懐メロ」アナだったことが大きいに違いないが、高嶋の喋りに自分の人生を重ねるには相応の年輪が必要だったことも確かである。

30日の番組で印象に残った最たるは、いよいよリスナー、それも長期高嶋信者、の「初めての」便りで溢れたことである。
私は便りを送れなかったが、もし送れていれば、私のそれも彼らのそれと同じ思いであった。
皆、「あさラジ」の終了を悔やみ、今生の別れになるであろう高嶋に感謝するばかりである。

同時に、考えさせられた最たるは、長寿商品の条件、および、利用商品の長寿を望む顧客の義務、である。
たしかに、「あさラジ」は8年続いた、立派な長寿番組である。
しかし、もし「あさラジ」が天寿を全うしたのであれば、先のような便りは番組に殺到しなかったはずである。

便りが感謝と悔み一辺倒であったことに対し、高嶋はこう述べた。
「そもそも(番組or自分のことが)気に入らない人は、今日まで聴いてないよな」。
成る程、「あさラジ」のリスナー、即ち、「あさラジ」なる商品の最終顧客、は固定的かつ限定的だったのである。
「あさラジ」の終了は、長寿商品の条件が満たされなかった、また、最終顧客である我々リスナーがその加担、即ち、義務を怠った、当然の帰結なのである。

なぜ「あさラジ」は、天寿を全うできなかったのか。
高嶋は番組終了の事前アナウンスの折、この旨述べた。
「リスナー(最終顧客)の若返りを望む局(ニッポン放送)側の意向」。
本事項は高嶋の納得を得なかったが、企業経営的、および、資本主義的には「やはり」であり、また、「尤も」である。

やはり、「あさラジ」なるニッポン放送の商品は「儲からない」、「お荷物」商品だったのである。
そもそもラジオのリスナー総数が年々漸減している所に、リスナーが、凡そ可処分所得の低い高齢者に偏っているばかり、新規の、可処分所得の高いリスナーとの入れ替わりが乏しいのだから。
広告媒体としての「あさラジ」の商品価値が限定的である以上、「あさラジ」の営業関係者と所属企業は利益獲得に難儀していた可能性が高い。
民間企業のニッポン放送が「あさラジ」の人工呼吸器を外したのは、無理からぬことであり、また、尤もである。

長寿商品の条件は「儲かること」なのである。
さもなくば、商品を持続的にカイゼン→リリースでき得ないのは勿論、ヒト、モノ、コトへ「新規」、および、「再」投資でき得ない(→挙句、株主が満足でき得ない)のである。

「あさラジ」の天寿の全うを望んだ我々リスナーは、何に[もっと]加担すべきだったのか。
高嶋を核とする番組の競合優位を潜在リスナーへ説き、新規リスナー、それも、可処分所得の比較的高いリスナーを誘引することであった。
また、適宜、宣伝の商品を購入したり、スポンサーへ「あさラジ」を付言し問い合わせることであった。

利用商品の長寿を望む顧客は、何に義務を負うのか。
「期待利益の獲得」であり、「一層の『儲かる』化」である。
結局、商品は、作るのは勿論、作り続けるにも、「カネ」というガソリンが要るからである。
長寿商品は良客との共作である。



高嶋ひでたけの読むラジオ
高嶋 秀武
小学館
2017-05-31





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