2018年07月09日

「動いている球を打った」フィル・ミケルソンの謝罪に肯定的になるの巻

「止まっている球を打つ」。
ゴルフのプロセスであり、ルールである。
そして、ゴルフをやらない言い訳のトップ3でもある。(笑)
「(棋士の)私は、絶えず動いている相手と戦い、勝っている。何が面白くて、止まっている球を打つものか」。
かつて米長邦雄がこの旨のたまい、数多の誘いを断っていた話は有名である(が、後に大のゴルフ好きに成ったのも有名な話である。笑)。

ただ、「止まっている球を打つ」のは、思うより簡単でない。
というか、相当難しく、また、深い(普遍的である)。
米長がゴルフにハマったのも、存外に人脈が広がるからではなく、余りの難しさと深さにそのプライドが肯定的に打ちのめされたからだろう。
「なぜ、『こんなに』相手も目標も止まっていてクリアなのに、ちゃんと打てない、飛ばせないのか」。
「なぜ、『こんな』止まっている球が、練習ではそこそこ打てる(ようになった)のに、本番では(依然)ちゃんと打てない、飛ばせないのか」、と。
「止まっている球を打つ」のは、それを飯の種とするプロからすると、当たり前のプロセスに過ぎないのかもしれないが、飯の種としない私のようなアマからすると、禅問答、或いは、絶対の神の啓示である(と、球を打ち終える度つい思う。笑)。

だからだろう。
先月、フィル・ミケルソンが「止まっていない(打ち終え、依然動いている)球」を打ち、後に謝罪したのである。
それも、全世界の衆目を集める四大メジャートーナメントの全米オープン、ラス前の三日目、のことである。


なぜ、ミケルソンはグリーン上、止まっていない、動いている球を打ったのか。
当日は、松山英樹が2度も4パッドをするなど、グリーンの難度が極めて高く、ミケルソンも相当我慢していた違いない。
だが、さすがトッププロのミケルソン、ここぞ冷静、合理的である。
「動いている球を打つ」ペナルティとして、二打罰を前払いしたのである。
球がこのままグリーンから大きく転落し、アプローチとパッティングの「沼」にハマる位なら、予め二打前納し、勘弁してもらうのが、メンタルマネジメント的には勿論、スコア&ゲームメイキング的に堅実である。

プロは、「勝つ」のが一義である。
「勝ってナンボ」である。
ミケルソンは、あくまでプロである。
そして、勝つために、勝つ確率を高めるために、キレる手前で、ルールの範囲内のルール違反を戦略的に決意し、動いている球を敢えて打ったのである。

なぜ、ミケルソンは「ルールの範囲内のルール違反」にもかかわらず、謝罪したのか。
結局、飯の種の源、もとい(笑)、最終顧客であるアマ、ファンを失望させたと、事後、メディア越しに気づいたからだろう。
「『止まっている球を打つ』のは、アマ、ファンにとって、もはやルール、プロセス云々ではなく、絶対の神聖不可侵である。自分はプレイでは間違いをおかさなかったが、彼らには間違いをおかした」、と。

私は、ミケルソンの謝罪、それも「冷静になるまでに数日間が必要でした」との、時間を相応に置いてのそれに肯定的である。
数多の自己反芻の結論、猛省の果ての本音にうかがえるからである。
ニュースやワイドショーでよく見る、形ばかり(アリバイ作り)の原稿棒読みのそれと真逆だからである。
謝罪は早いに越したことはないが、熟慮と本音がうかがえなければ、無意味なばかりか、対象者に冒涜的なのである。

私は、ミケルソンの謝罪から(改めて)気づかされた。
我々が、自然かつ悪意なく間違いをおかすことの不可避性を。
間違いに気づいた際の、相応に時間を置き「引っ込みをつける」有意性を。
「引っ込み」を奨励する、我々の猶予の必要性を。
謝罪は心底懲り、かつ、懲らせてこそ、である。



[7月10日追記]



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