私の母は、モノを大事する人だった。
炊飯器のご飯を最後によそう時は、数十分前に電源を切り、内釜の米粒を綺麗にはらっていた。
贈り物を頂戴した時は、包み紙や箱を取り置き、贈り物の包装に再利用していた。
出来合いのお惣菜を買った時は、入れ物を取り置き、出先で捨てられる簡易弁当箱として再利用していた。
私が学生で新しい靴下をおろす時は、予めつま先と踵に当て布を当ててくれた。
なぜ、母は、モノを大事にするようになったのか
残念ながら、今となってはわからない。
が、第二次世界大戦が始まる五年前に農家に生まれ、食べ物を創る大変さや「食べ物が食べられる」&「モノが使える」ありがたさを幼い時分に肌で感じたことは、少なからず効いているだろう。
私は、母の血を受け継いでいる。
さすがに、靴下に当て布を当てることはないが、数十分前に電源を切って炊飯器の内釜をはらうことは、家で夕食を取る時の日常事だ。(笑)
ただ、母から受け継いだ私の血は、妻にはあまり好まれていない。
妻は、該当する思考&行動習慣を、概して「ケチ」と一笑する。(苦笑)
かくいう妻の考えは、矛盾している。
昨年、「Around40/注文の多いオンナたち」というテレビドラマがあった。
妻は、準主役の藤木直人さんが好きでこのドラマを欠かさず見ていたのだが、イケメン藤木さん演じる岡村恵太朗が「エコ」に異常執着するのは「非ケチ」だという。(笑)
自分と妻の考えを客観してわかることがある。
「モノを大事にすること」と「ケチ」と「エコ」は、各々紙一重であり、主体や文脈によって好都合に解釈/活用されている、ということだ。
「モノを大事にすること」と「ケチ」と「エコ」は、各々手段としては社会的にコンセンサスが形成されているものの、目的としては形成されていない。
「なぜ、モノは大事にすべきなのか」、「なぜ、ケチであるべきなのか」、「なぜ、エコを志向すべきなのか」を正確かつ合理的に認識している日本人は、僅少だ。
目的を正確かつ合理的に認識しないまま手段のみ妄信/実行することは、無意味であり、かつ、時として現状を危うくするばかりか、取り返しがつかなくなる。
私は、親友のIさんが推奨してくれた「偽善エコロジー―『環境生活』が地球を破壊する(著:武田邦彦)」を読み、このことを再認識した。 続きを読む