2006年07月04日
「野村ノート」(野村克也・著)を読むの巻
最大のそれは、野村さんが創った「ID(important data)野球」は、あたかも「野村さんが目指す野球像」そのものであるが如く伝えられているもののそれは誤りであり、正しくは、「野村さんが目指す野球像」である「『打ち取るVS攻略する』野球」の達成を促す、プロフェッショナルとして実行すべき準備(=プロセス)のひとつに過ぎない、ということだ。
私は、戦略にしろ、戦術にしろ、それらは自らが心底実現したいと願う目的を達成する為の手段(プロセス)を超えることはない、と認識している。
なぜならば、プロフェッショナルとして手段の完遂に自助努力を尽くすことは不可欠であるものの、手段(プロセス)が目的化してしまうと、概して、本末転倒の結果が訪れるからだ。
野村さんの先述のお考えは、私のこの認識を深めることに加え、弊社クレド【8】の理解を促してくれた。
野村さんには、感謝、感謝である。(礼)
その他の気づきや再認識事項については、以下に該当箇所を引用した。
現在、組織のリーダーを務めておられる方はもちろん、将来リーダーになろうと考えている方は、以下をご覧いただくと共に、一読をお勧めしたい。
【1】ミーティングが「考えるプレー」を促す。
【2】プロフェッショナルとは、優れた「原点能力」を持つ人のこと。
【3】優れた才能が開花する前提条件は、人間形成がしっかりできていること。
【4】人は、「原理原則を教えてくれる人」、「師と仰ぐ人」、「直言してくれる人」、の三人の友を持つべし。
【5】後継者を育てる仕組みを持っているチームが、持続的成功を果たす。
【6】結果品質の高低は、手段(プロセス)に対する執心度に依存する。
【7】データは、結果を創出する準備のひとつである。
【8】個人が生きるも死ぬも、チームが勝つのも負けるのも、リーダーが適材適所を果たすか否かで決まる。(1)
【9】個人が生きるも死ぬも、チームが勝つのも負けるのも、リーダーが適材適所を果たすか否かで決まる。(2)
【10】顕在意識に基く準備の充実が、優れた結果を創出する。
【1】ミーティングが「考えるプレー」を促す。
P14
選手が野球という競技を通じてさまざまなことを考える。これが選手のプレーの質を高め、成績を上げ、チームとして正しい方向に進むことにつながるのであれば、監督の仕事とは、選手たちに考え方のエキスをどう増やすかがその大半を占めるといっても過言ではない。
ただそうはいっても、これまで本能でプレーしてきた選手に突然、「もっと考えてやりなさい」といっても、選手はどう考えてやればいいのか迷ってしまう。
そこで常日頃のミーティングが大事になる。
シーズン中の日々の試合前に行うミーティングも大事だが、そこでは当日の相手チーム、投手、打者をどうやって攻略すればいいか、封じればいいかということに時間を割かなくてはならない。従って私はミーティングを、われわれ指導者が選手に接することが許されるキャンプ初日から徹底的に行ってきた。
なぜミーティングをキャンプからやるべきか。それはシーズン中とことなり、キャンプでは相手チームなどを想定することなく、人間学や社会学、それに組織学をたっぷりと時間をかけて勉強できるからだ
【2】プロフェッショナルとは、優れた「原点能力」を持つ人のこと。
P44
外角低めのストレート。投手はブルペンでそこにきちんと投げられるように練習している。
私はこの外角低めを「原点」と呼んでいる。そこにどれだけきちんと投げられるか、投手の原点への精度を「原点能力」と呼び、先発バッテリーには最初の1イニング目は何球か原点に投じ、その日の投手の原点能力がどれぐらいなのかを確かめ、それによってその日のピッチングを組み立てなさいと指導している。
また、1−1のカウントから2−1に追い込むと、打者の習性のようなものがあって無意識に内角と外角の変化球をマークするところがある。この場合、原点(外角低目)が死角となって、見逃し三振をする打者をよく見かける。
【3】優れた才能が開花する前提条件は、人間形成がしっかりできていること。
P106
石井一久もまだ同じような問題を抱えている。
彼はメジャーでも簡単に2けた勝ってしまうほどの資質があるのに、勝ち星が続かない。被本塁打が多く、黒星が多いからチームからは信頼されない。
日本でも米国でも、今ひとつ一流から超一流の域(安定感)まで達しきれないのは彼の性格にあり、それは指導者であった私の責任でもある。
(中略)
それに投手というのは、やはり気分よく心身ともにベストの状態でマウンドへ送ってやるほうが力を発揮する。しかし結果として、こうした考えが彼を甘やかしてしまった。
(中略)
鉄は熱いうちに打てというが、やはり打っておくべきだった。
そうすれば彼の人生はもっとすばらしいものに変わっていたはずだ。
メジャーに行っても、ストライクが入らない自分にイライラして、最後は長打を食らって自滅してしまう。日本と同じ過ちと犯しているのを見ると、人間教育は大切だと痛感する。性格的には悪い子ではないのだが、こうした人間形成がしっかりできていないだけに、好不調や運、不運、あるいはいつもはストライクを取ってくれるコースを審判にボールといわれたり・・・そういったちょっとしたことで崩れ、自分を見失ってしまう。彼がそのすばらしい才能をもて余してしまっていることが、私は残念でならない。
【4】人は、「原理原則を教えてくれる人」、「師と仰ぐ人」、「直言してくれる人」、の三人の友を持つべし。
P133
「オーナー(※阪神の久万オーナーに対して)、生意気なことをいうようですが、”人間3人の友をもて”というじゃないですか。原理原則を教えてくれる人、師と仰ぐ人、直言してくれる人。オーナーには直言してくる人がいないんじゃないですか。みんなオーナーが気持ちよくなる話しかしてこないでしょう。人間偉くなるとそうなるものです。」
そうしたら久万オーナーは、ぼそっと「それはそうだなぁ」とおっしゃった。
【5】後継者を育てる仕組みを持っているチームが、持続的成功を果たす。
P170
南海とは対照的に、当時の巨人はそういった後継者をつくり、その者に監督の座を譲るというシステムがしっかりとできていた。
当時の南海に、大学時代、田淵、山本と法政の三羽ガラスと呼ばれた冨田勝という三塁手がいた。3番を打ったりしていたのだが、あるとき巨人の川上さんから連絡があり、富田を欲しいといわれた。
「長嶋がちょっと衰えてきたんで適当に休ませたい。そのために三塁手として富田が欲しい」
電話で即答できる話ではなかったので答えを濁していると、「とりあえず会ってほしい」といわれ、後日会うことになった。
指定された赤坂の料亭に行くと、座敷に長嶋がいて驚いた。川上さんからは「彼はいずれ巨人の監督になるから、トレード交渉というのはどういうものか見せてやりたい。だから同席させてくれないかね」といわれた。もちろん私は了承した。
当時の巨人はそういった継承がしっかりできていた。それが巨人の伝統であり、だから他球団が入り込む余地がないほど強かった。
【6】結果品質の高低は、手段(プロセス)に対する執心度に依存する。
P179
光を求めるプレーというのは実践するうえで非常に楽だが、影となるプレー、創意工夫や研究、犠牲というものはつらいものである。結果が数字に表れない。ホームランのように拍手喝采を浴びることはない。だがこうした影の行為がないがために、プロセスを無視した結果主義となり、野球という複雑なゲームを淡白にしてしまうのだ。豪快だがきめの細かさに欠けるといわれるパ・リーグ野球を生み出してしまっている元凶である。
個人にしても、パ・リーグには城島という日本代表の正捕手がいる。彼は天才的な打者であり、リードも一時期に比べたらずいぶん成長が見られる。
だがいかんせんパ・リーグ野球、つまり「打ち損じVS投げ損じ」の対決という打撃戦のなかで戦っているとあって、考えているなと感心するような工夫が見えにくい。極論すると変化球が2球も続けば真っ直ぐが来る。変化球がボールになると、すぐに真っ直ぐでストライクを取りにいく。結果的に打者に読みやすいリードとなっている。
一方、セ・リーグには古田という鑑となる捕手がおり、矢野、谷繁という守り(配球)で勝負できる捕手が続いている。DH制度があるため、どうしてもパ・リーグでは「野球は点取りゲームである」「打って勝つのが野球」と誤解しやすいが、私の考えは正反対である。
野球というスポーツは0点にさえ抑えれば、負けることはない、つまり野球は「点を防ぐゲーム」である。その認識を誤ってしまうから、捕手を育てようという意識が首脳陣に希薄となるのだ。
野球界は常に社会を反映している。
根性野球が管理野球に変わり、そして今は情報野球に推移してきた。情報野球だからこそ、「打ち取るVS攻略する」の図式にならなくてはいけないのに、いつまでたっても「打ち損じVS投げ損じ」のままでは、ファンの関心をひきつけることはできない。ますます時代から遠ざかっていく。
【7】データは、結果を創出する準備のひとつである。
P183
データの必要性は、いうまでもなく「知らないより知っていたほうがいい」だ。
万人の打者が「変化球への対応」というテーマをもっている。バッテリー間をボールは平均0.4秒で通過する。誰もが「来た球を打つ」という技術だけで打ちこなせるなら苦労はない。たとえば投げてくる球種が100%わかれば打ちやすいに決まっている。しかし現実は何を投げてくるかわからない。従って、できる限り投げてくる球種を知るための努力をする。そのひとつがデータだ。
【8】個人が生きるも死ぬも、チームが勝つのも負けるのも、リーダーが適材適所を果たすか否かで決まる。(1)
P185
チームスポーツである以上、みんなが勝たなくてはいけないという一致団結感、まとまりが求められる。これだけを前提に野球に取り組んでくれれば、組織としてチームは機能する。
組織というのはそういったチーム全体の意識の方向性(まとまり)がもっとも大切なのであって、すばらしい素質をもった選手を1番から9番まで集める、そうしたことがまとまりを上回るかといえば決してそうではない。
たしかに4番打者は欲しい。プレーだけでなく、人間的にもチームの鑑になる人間ならなおさらだ。みんなが「あの人に回そう」「あの人に回したら何とかしてくれる」と思えるよなリーダーならばいうことはない。
4番の負担を楽にするためにも、3、5番にはある程度の実力は欲しい。だから3〜5番をクリーンアップと呼ぶのであるが、それ以外はそれほど秀でた打者は必要ない。しっかり守って、そこそこ足があり、チームのために黒子に徹し切れる選手であれば、それで十分だ。
不思議なことに、ある球団で4番らしい活躍をしていた選手でも、巨人のような4番打者がすらりと並ぶチームに移籍して3番を打たされたり、5番を打たされたり、6番、7番に下がったりしていると、だんだんその程度の打者に変わってしまう。まことに不思議であるが、まさに「地位が人をつくる」である。
私もオールスターで経験がある。西本監督が全パを指揮していたのだが、ある試合で「野村、悪いけど、今日は気楽に7番ぐらいでやってくれ」といわれた。まあ、他のチームからも4番打者が出てきているから、「ああ、いいですよ」とそのときは気楽に答えたのだが、いざスタメンが発表になると、阪急の長池が4番だった。「なんや自分のチームから選ぶのか」とむしょうに腹が立って、「おれの実力ってその程度のものなのか」とがっくりきた。
だったら試合で結果を出し、「全パの4番はやっぱり野村だった」と見せつけてやればいいのだろうが、いざ試合が始まっても気持ちが高まらない。ふだんは「おれに回せよ」「おれがなんとかしてやるから」という気持ちで、ベンチから試合を見ているのだが、7番だとそういう気持ちにならない。責任感や使命感といったものがすっかり消えてしまって、ただ淡々と試合を終えてしまったという苦い経験がある。
そういう点からも野球というのは非常に難しい。特に打順は、まるで評価のように「いちばん打つ選手が何番で、打てない選手は何番」と決められているものだから、監督が選手を激励して頑張らせようとしても、「口ではそういうけど、実際はそんなに信用していないんだろ?」ということになる。
結局、巨人のように国内外、そしてアマチュアとあらゆるチームから4番打者を集めてきても、他のチームとさして変わらないチームでしかなくなってしまう。
いくら個人として優秀な選手を集めてきても、それぞれの役目を果たさなくては、野球というスポーツはチームとして機能しない。
【9】個人が生きるも死ぬも、チームが勝つのも負けるのも、リーダーが適材適所を果たすか否かで決まる。(2)
P189
昭和40年代、V9という不滅の大記録を達成した川上監督率いる巨人は、まさしく適材適所の集団だった。
野球には9つのポジションと9つの打順がある。それぞれの条件にぴたりと適した選手がはまり、不動のオーダーをつくった。適材適所とはこのことだと実感させられた。
私の頭には常にV9巨人のオーダーがあり、それに自分のチームを近づけるにはどうしたらいいかと考えさせられた。
(中略)
プロとして生きていくうえで、自分が目指すべきバッティングは何か。どう自分の役目を認識するか。そしてどう野球を考えるか。チーム状態がいいときは、そういうことを改めて口にしなくても、選手は自主的に考える。
問題はチーム状態が悪いときだ。
(中略)
入団1、2年目の宮本でも年に1〜2本はホームランを打ったり、長打を放ったりもした。しかしその時々で一発を褒めてしまっては、彼にとって目指すべき方向が中途半端になる。
彼がホームランを打ってベンチに帰ってきたときに叱ったことがある。ホームラン打者でもない人がホームランを打つと必ずスランプに陥る。無意識に体がホームランを欲しがるようになる。まさにホームランは麻薬のような要素をもっている。あのイチローでも1試合に2本のホームランを打った翌日から、3試合もノーヒットの試合が続いたのは、単なる偶然とは思えない。
役割を徹して進むべき方向を決めてあげることが、適材適所に当てはまるように選手が育っていく近道となるのだ。
【10】顕在意識に基く準備の充実が、優れた結果を創出する。
P192
そこで選手には「野村野球とは意識付けだ」と答えるようにいった。
意識は無意識(潜在意識)と有意識(顕在意識)とに分けられるが、9対1の割合で無意識が占めているという。だから脳はたった1割しか動いていないことになる。
選手は本能的に来た球を打つ、あるいは打者が打ったら走者は次塁に走るなど、そういった無意識に取る行動で点を取ることも可能だ。
しかし0点に抑えるには意識が必要だ。一死満塁で内野ゴロの場合、ホームでひとつアウトを取るのか、二塁に投げて併殺を狙うのか。事前に頭に入れておかなければとっさに判断するのは難しい。
捕手の配給などまさに意識の集まりだし、打撃も同じだ。カウント0−3。相手の投手が四球で歩かせたくない場面だとする。ストライクが来る確率が高い。それもストレートが来るという二重のバッティングチャンスだ。何もみすみす甘い球を見逃して、ストライクを献上することはない。打っていい0−3である。
ところが無意識で臨むと、難しい低めに手を出したり、ストレートでも高めのボール球に手を出して、凡フライを打ち上げるということがよくある。
そこで私は選手に、「バッティングチャンスだ。二段構えでいきなさい」と指導している。「ストレートのストライクだけ」、あるいはストレートを打ちにいくとどうしてもバットのヘッドが下がる、そういう選手には「ストレートにヘッドを立てて」と指示を送る。
顕在意識が必要である。
(中略)
古田などは「0−3、打ってもいいぞ」とサインを出しても、ストライクに手を出さない。結局四球で歩き、その後チェンジになってベンチに帰ってきたとき「なぜ打たなかったんだ」と訊くと、「必ずヒットが出るとは限らないですから」という。もちろん「いける」というときには積極的に打って出るのだが、自重することも心得ていた。
こういった選手が何人かいると、チームは相手のピンチに一気呵成に攻撃し、逆に自信がないのに無謀な行動でチャンスを逃して流れを変えるようなことが少なくなる。
実践においては意識付けを中心に、「備えあれば憂いなし」「準備の充実なくしていい結果は得られない」という準備意識(プロセス重視)が私の野球である。
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私は、戦略にしろ、戦術にしろ、それらは自らが心底実現したいと願う目的を達成する為の手段(プロセス)を超えることはない、と認識している。
なぜならば、プロフェッショナルとして手段の完遂に自助努力を尽くすことは不可欠であるものの、手段(プロセス)が目的化してしまうと、概して、本末転倒の結果が訪れるからだ。
野村さんの先述のお考えは、私のこの認識を深めることに加え、弊社クレド【8】の理解を促してくれた。
野村さんには、感謝、感謝である。(礼)
その他の気づきや再認識事項については、以下に該当箇所を引用した。
現在、組織のリーダーを務めておられる方はもちろん、将来リーダーになろうと考えている方は、以下をご覧いただくと共に、一読をお勧めしたい。
【1】ミーティングが「考えるプレー」を促す。
【2】プロフェッショナルとは、優れた「原点能力」を持つ人のこと。
【3】優れた才能が開花する前提条件は、人間形成がしっかりできていること。
【4】人は、「原理原則を教えてくれる人」、「師と仰ぐ人」、「直言してくれる人」、の三人の友を持つべし。
【5】後継者を育てる仕組みを持っているチームが、持続的成功を果たす。
【6】結果品質の高低は、手段(プロセス)に対する執心度に依存する。
【7】データは、結果を創出する準備のひとつである。
【8】個人が生きるも死ぬも、チームが勝つのも負けるのも、リーダーが適材適所を果たすか否かで決まる。(1)
【9】個人が生きるも死ぬも、チームが勝つのも負けるのも、リーダーが適材適所を果たすか否かで決まる。(2)
【10】顕在意識に基く準備の充実が、優れた結果を創出する。
【1】ミーティングが「考えるプレー」を促す。
P14
選手が野球という競技を通じてさまざまなことを考える。これが選手のプレーの質を高め、成績を上げ、チームとして正しい方向に進むことにつながるのであれば、監督の仕事とは、選手たちに考え方のエキスをどう増やすかがその大半を占めるといっても過言ではない。
ただそうはいっても、これまで本能でプレーしてきた選手に突然、「もっと考えてやりなさい」といっても、選手はどう考えてやればいいのか迷ってしまう。
そこで常日頃のミーティングが大事になる。
シーズン中の日々の試合前に行うミーティングも大事だが、そこでは当日の相手チーム、投手、打者をどうやって攻略すればいいか、封じればいいかということに時間を割かなくてはならない。従って私はミーティングを、われわれ指導者が選手に接することが許されるキャンプ初日から徹底的に行ってきた。
なぜミーティングをキャンプからやるべきか。それはシーズン中とことなり、キャンプでは相手チームなどを想定することなく、人間学や社会学、それに組織学をたっぷりと時間をかけて勉強できるからだ
【2】プロフェッショナルとは、優れた「原点能力」を持つ人のこと。
P44
外角低めのストレート。投手はブルペンでそこにきちんと投げられるように練習している。
私はこの外角低めを「原点」と呼んでいる。そこにどれだけきちんと投げられるか、投手の原点への精度を「原点能力」と呼び、先発バッテリーには最初の1イニング目は何球か原点に投じ、その日の投手の原点能力がどれぐらいなのかを確かめ、それによってその日のピッチングを組み立てなさいと指導している。
また、1−1のカウントから2−1に追い込むと、打者の習性のようなものがあって無意識に内角と外角の変化球をマークするところがある。この場合、原点(外角低目)が死角となって、見逃し三振をする打者をよく見かける。
【3】優れた才能が開花する前提条件は、人間形成がしっかりできていること。
P106
石井一久もまだ同じような問題を抱えている。
彼はメジャーでも簡単に2けた勝ってしまうほどの資質があるのに、勝ち星が続かない。被本塁打が多く、黒星が多いからチームからは信頼されない。
日本でも米国でも、今ひとつ一流から超一流の域(安定感)まで達しきれないのは彼の性格にあり、それは指導者であった私の責任でもある。
(中略)
それに投手というのは、やはり気分よく心身ともにベストの状態でマウンドへ送ってやるほうが力を発揮する。しかし結果として、こうした考えが彼を甘やかしてしまった。
(中略)
鉄は熱いうちに打てというが、やはり打っておくべきだった。
そうすれば彼の人生はもっとすばらしいものに変わっていたはずだ。
メジャーに行っても、ストライクが入らない自分にイライラして、最後は長打を食らって自滅してしまう。日本と同じ過ちと犯しているのを見ると、人間教育は大切だと痛感する。性格的には悪い子ではないのだが、こうした人間形成がしっかりできていないだけに、好不調や運、不運、あるいはいつもはストライクを取ってくれるコースを審判にボールといわれたり・・・そういったちょっとしたことで崩れ、自分を見失ってしまう。彼がそのすばらしい才能をもて余してしまっていることが、私は残念でならない。
【4】人は、「原理原則を教えてくれる人」、「師と仰ぐ人」、「直言してくれる人」、の三人の友を持つべし。
P133
「オーナー(※阪神の久万オーナーに対して)、生意気なことをいうようですが、”人間3人の友をもて”というじゃないですか。原理原則を教えてくれる人、師と仰ぐ人、直言してくれる人。オーナーには直言してくる人がいないんじゃないですか。みんなオーナーが気持ちよくなる話しかしてこないでしょう。人間偉くなるとそうなるものです。」
そうしたら久万オーナーは、ぼそっと「それはそうだなぁ」とおっしゃった。
【5】後継者を育てる仕組みを持っているチームが、持続的成功を果たす。
P170
南海とは対照的に、当時の巨人はそういった後継者をつくり、その者に監督の座を譲るというシステムがしっかりとできていた。
当時の南海に、大学時代、田淵、山本と法政の三羽ガラスと呼ばれた冨田勝という三塁手がいた。3番を打ったりしていたのだが、あるとき巨人の川上さんから連絡があり、富田を欲しいといわれた。
「長嶋がちょっと衰えてきたんで適当に休ませたい。そのために三塁手として富田が欲しい」
電話で即答できる話ではなかったので答えを濁していると、「とりあえず会ってほしい」といわれ、後日会うことになった。
指定された赤坂の料亭に行くと、座敷に長嶋がいて驚いた。川上さんからは「彼はいずれ巨人の監督になるから、トレード交渉というのはどういうものか見せてやりたい。だから同席させてくれないかね」といわれた。もちろん私は了承した。
当時の巨人はそういった継承がしっかりできていた。それが巨人の伝統であり、だから他球団が入り込む余地がないほど強かった。
【6】結果品質の高低は、手段(プロセス)に対する執心度に依存する。
P179
光を求めるプレーというのは実践するうえで非常に楽だが、影となるプレー、創意工夫や研究、犠牲というものはつらいものである。結果が数字に表れない。ホームランのように拍手喝采を浴びることはない。だがこうした影の行為がないがために、プロセスを無視した結果主義となり、野球という複雑なゲームを淡白にしてしまうのだ。豪快だがきめの細かさに欠けるといわれるパ・リーグ野球を生み出してしまっている元凶である。
個人にしても、パ・リーグには城島という日本代表の正捕手がいる。彼は天才的な打者であり、リードも一時期に比べたらずいぶん成長が見られる。
だがいかんせんパ・リーグ野球、つまり「打ち損じVS投げ損じ」の対決という打撃戦のなかで戦っているとあって、考えているなと感心するような工夫が見えにくい。極論すると変化球が2球も続けば真っ直ぐが来る。変化球がボールになると、すぐに真っ直ぐでストライクを取りにいく。結果的に打者に読みやすいリードとなっている。
一方、セ・リーグには古田という鑑となる捕手がおり、矢野、谷繁という守り(配球)で勝負できる捕手が続いている。DH制度があるため、どうしてもパ・リーグでは「野球は点取りゲームである」「打って勝つのが野球」と誤解しやすいが、私の考えは正反対である。
野球というスポーツは0点にさえ抑えれば、負けることはない、つまり野球は「点を防ぐゲーム」である。その認識を誤ってしまうから、捕手を育てようという意識が首脳陣に希薄となるのだ。
野球界は常に社会を反映している。
根性野球が管理野球に変わり、そして今は情報野球に推移してきた。情報野球だからこそ、「打ち取るVS攻略する」の図式にならなくてはいけないのに、いつまでたっても「打ち損じVS投げ損じ」のままでは、ファンの関心をひきつけることはできない。ますます時代から遠ざかっていく。
【7】データは、結果を創出する準備のひとつである。
P183
データの必要性は、いうまでもなく「知らないより知っていたほうがいい」だ。
万人の打者が「変化球への対応」というテーマをもっている。バッテリー間をボールは平均0.4秒で通過する。誰もが「来た球を打つ」という技術だけで打ちこなせるなら苦労はない。たとえば投げてくる球種が100%わかれば打ちやすいに決まっている。しかし現実は何を投げてくるかわからない。従って、できる限り投げてくる球種を知るための努力をする。そのひとつがデータだ。
【8】個人が生きるも死ぬも、チームが勝つのも負けるのも、リーダーが適材適所を果たすか否かで決まる。(1)
P185
チームスポーツである以上、みんなが勝たなくてはいけないという一致団結感、まとまりが求められる。これだけを前提に野球に取り組んでくれれば、組織としてチームは機能する。
組織というのはそういったチーム全体の意識の方向性(まとまり)がもっとも大切なのであって、すばらしい素質をもった選手を1番から9番まで集める、そうしたことがまとまりを上回るかといえば決してそうではない。
たしかに4番打者は欲しい。プレーだけでなく、人間的にもチームの鑑になる人間ならなおさらだ。みんなが「あの人に回そう」「あの人に回したら何とかしてくれる」と思えるよなリーダーならばいうことはない。
4番の負担を楽にするためにも、3、5番にはある程度の実力は欲しい。だから3〜5番をクリーンアップと呼ぶのであるが、それ以外はそれほど秀でた打者は必要ない。しっかり守って、そこそこ足があり、チームのために黒子に徹し切れる選手であれば、それで十分だ。
不思議なことに、ある球団で4番らしい活躍をしていた選手でも、巨人のような4番打者がすらりと並ぶチームに移籍して3番を打たされたり、5番を打たされたり、6番、7番に下がったりしていると、だんだんその程度の打者に変わってしまう。まことに不思議であるが、まさに「地位が人をつくる」である。
私もオールスターで経験がある。西本監督が全パを指揮していたのだが、ある試合で「野村、悪いけど、今日は気楽に7番ぐらいでやってくれ」といわれた。まあ、他のチームからも4番打者が出てきているから、「ああ、いいですよ」とそのときは気楽に答えたのだが、いざスタメンが発表になると、阪急の長池が4番だった。「なんや自分のチームから選ぶのか」とむしょうに腹が立って、「おれの実力ってその程度のものなのか」とがっくりきた。
だったら試合で結果を出し、「全パの4番はやっぱり野村だった」と見せつけてやればいいのだろうが、いざ試合が始まっても気持ちが高まらない。ふだんは「おれに回せよ」「おれがなんとかしてやるから」という気持ちで、ベンチから試合を見ているのだが、7番だとそういう気持ちにならない。責任感や使命感といったものがすっかり消えてしまって、ただ淡々と試合を終えてしまったという苦い経験がある。
そういう点からも野球というのは非常に難しい。特に打順は、まるで評価のように「いちばん打つ選手が何番で、打てない選手は何番」と決められているものだから、監督が選手を激励して頑張らせようとしても、「口ではそういうけど、実際はそんなに信用していないんだろ?」ということになる。
結局、巨人のように国内外、そしてアマチュアとあらゆるチームから4番打者を集めてきても、他のチームとさして変わらないチームでしかなくなってしまう。
いくら個人として優秀な選手を集めてきても、それぞれの役目を果たさなくては、野球というスポーツはチームとして機能しない。
【9】個人が生きるも死ぬも、チームが勝つのも負けるのも、リーダーが適材適所を果たすか否かで決まる。(2)
P189
昭和40年代、V9という不滅の大記録を達成した川上監督率いる巨人は、まさしく適材適所の集団だった。
野球には9つのポジションと9つの打順がある。それぞれの条件にぴたりと適した選手がはまり、不動のオーダーをつくった。適材適所とはこのことだと実感させられた。
私の頭には常にV9巨人のオーダーがあり、それに自分のチームを近づけるにはどうしたらいいかと考えさせられた。
(中略)
プロとして生きていくうえで、自分が目指すべきバッティングは何か。どう自分の役目を認識するか。そしてどう野球を考えるか。チーム状態がいいときは、そういうことを改めて口にしなくても、選手は自主的に考える。
問題はチーム状態が悪いときだ。
(中略)
入団1、2年目の宮本でも年に1〜2本はホームランを打ったり、長打を放ったりもした。しかしその時々で一発を褒めてしまっては、彼にとって目指すべき方向が中途半端になる。
彼がホームランを打ってベンチに帰ってきたときに叱ったことがある。ホームラン打者でもない人がホームランを打つと必ずスランプに陥る。無意識に体がホームランを欲しがるようになる。まさにホームランは麻薬のような要素をもっている。あのイチローでも1試合に2本のホームランを打った翌日から、3試合もノーヒットの試合が続いたのは、単なる偶然とは思えない。
役割を徹して進むべき方向を決めてあげることが、適材適所に当てはまるように選手が育っていく近道となるのだ。
【10】顕在意識に基く準備の充実が、優れた結果を創出する。
P192
そこで選手には「野村野球とは意識付けだ」と答えるようにいった。
意識は無意識(潜在意識)と有意識(顕在意識)とに分けられるが、9対1の割合で無意識が占めているという。だから脳はたった1割しか動いていないことになる。
選手は本能的に来た球を打つ、あるいは打者が打ったら走者は次塁に走るなど、そういった無意識に取る行動で点を取ることも可能だ。
しかし0点に抑えるには意識が必要だ。一死満塁で内野ゴロの場合、ホームでひとつアウトを取るのか、二塁に投げて併殺を狙うのか。事前に頭に入れておかなければとっさに判断するのは難しい。
捕手の配給などまさに意識の集まりだし、打撃も同じだ。カウント0−3。相手の投手が四球で歩かせたくない場面だとする。ストライクが来る確率が高い。それもストレートが来るという二重のバッティングチャンスだ。何もみすみす甘い球を見逃して、ストライクを献上することはない。打っていい0−3である。
ところが無意識で臨むと、難しい低めに手を出したり、ストレートでも高めのボール球に手を出して、凡フライを打ち上げるということがよくある。
そこで私は選手に、「バッティングチャンスだ。二段構えでいきなさい」と指導している。「ストレートのストライクだけ」、あるいはストレートを打ちにいくとどうしてもバットのヘッドが下がる、そういう選手には「ストレートにヘッドを立てて」と指示を送る。
顕在意識が必要である。
(中略)
古田などは「0−3、打ってもいいぞ」とサインを出しても、ストライクに手を出さない。結局四球で歩き、その後チェンジになってベンチに帰ってきたとき「なぜ打たなかったんだ」と訊くと、「必ずヒットが出るとは限らないですから」という。もちろん「いける」というときには積極的に打って出るのだが、自重することも心得ていた。
こういった選手が何人かいると、チームは相手のピンチに一気呵成に攻撃し、逆に自信がないのに無謀な行動でチャンスを逃して流れを変えるようなことが少なくなる。
実践においては意識付けを中心に、「備えあれば憂いなし」「準備の充実なくしていい結果は得られない」という準備意識(プロセス重視)が私の野球である。
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この記事へのコメント
「ID野球」は目的のための手段だったんですね。
世の中目的のための手段が、いつの間にか目的化してしまっているようなことって多いですよね。
その最たるものが、お金。お金は豊かで幸せな暮らしを送るための手段の一つなのに、それを目的化してしまって、肝心の目的である「豊かで幸せな暮らし」を忘れてしまっているいわゆる「成功者」も多いのではないでしょうか。
ルールもこういうものが多いですよね。不正防止の手続きとか。結局善良な人に面倒な思いや不快な思いをさせるだけで、不正を働く人は、そんなルールの抜け道を見つけ、不正が収まるわけではない、みたいな。
世の中目的のための手段が、いつの間にか目的化してしまっているようなことって多いですよね。
その最たるものが、お金。お金は豊かで幸せな暮らしを送るための手段の一つなのに、それを目的化してしまって、肝心の目的である「豊かで幸せな暮らし」を忘れてしまっているいわゆる「成功者」も多いのではないでしょうか。
ルールもこういうものが多いですよね。不正防止の手続きとか。結局善良な人に面倒な思いや不快な思いをさせるだけで、不正を働く人は、そんなルールの抜け道を見つけ、不正が収まるわけではない、みたいな。
Posted by GIN at 2006年07月06日 18:26
GINさん
> 世の中目的のための手段が、いつの間にか目的化してしまっているようなことって多いですよね。
同感です。
自分はその被害者、加害者のいずれにもならないよう自助努力を尽くす所存です。
> 世の中目的のための手段が、いつの間にか目的化してしまっているようなことって多いですよね。
同感です。
自分はその被害者、加害者のいずれにもならないよう自助努力を尽くす所存です。
Posted by 堀 at 2006年07月06日 19:09