2006年07月14日
「なぜ、人的サービスは、サービス提供者とお客さまの関係性が、奴隷と主人ではなく、フィフティ・フィフティの時に、高品質が高確率で達成されるのか?」を考えるの巻
私は、一昨日、某金融会社にてカスタマーサポート業務をマネージしておられるUさんを「問い合わせと苦情対応の実務」というセミナーに誘った。
昨日、Uさんは、ご丁寧なことに、私へお礼メールを送って下さった。
私は、Uさんのお心遣いをとても嬉しく思った。
昨日、Uさんは、ご丁寧なことに、私へお礼メールを送って下さった。
私は、Uさんのお心遣いをとても嬉しく思った。
私は、頂戴したメールに対して、原則24時間以内にお返事を出すようにしている。
私は、Uさんへのお返事書きを始めた。
私は、お返事を書く際、頂戴した文章を引用し、それに対して個別にレスをしている。
私は、Uさんの文章に引用符を付け、それぞれにレスをつけ始めた。
私は、以下の問いに、なかなかレスをつけることができなかった。
なぜなら、比較的よく出てくるこの問いに対して、これまで自分の考えを明らかにしてこなかったからだ。
> 日本の企業は「サービス」とは「奴隷のように奉仕する」
> 「決して顧客に逆らわない」なんて考えているふしが
> ヒシヒシと感じられるんですが気のせいですかね!
時間に切迫された私は、非常にずるい方策を選択した。
それは、この問いに対して直接的に回答せずに、持論を展開からだ。(笑)
以下が、私のレスである。
--------------------------------------
気のせいではないと思います。(笑)
日本におけるサービスの主たる概念は、
「自己犠牲を伴いながら無料かつ隷属的に仕えること」
ではないか、と私は考えています。
宮本さんからご紹介いただいた友達の一人である
レストラン業を営む(株)HUGEの新川社長が唱える
「ホスピタリティは50:50の関係から生まれる」という考え(↓)は、
http://blog.livedoor.jp/masterhori/archives/50447527.html
日本では必ずしも主流ではありません。
私は、こうした背景に、
「有形商品=お金を払うべき」
「無形商品=お金を払うべきでない」
という、モノづくり国民の血があるような気がしています。(笑)
日本の企業が物品購入コストには物凄くシビアな反面、
会議やサービス残業が要求する時間&人的コストに寛容なのも、
私はこの血のせいだと思っています。(笑)
ビジネスにおけるサービスには必ずコストがかかっています。
それをお客さまに要求すること、お客さまが支払うことは当然です。
にも関らず、それがなかなか実行されないのは、
先の血<=国民文化)のほか、サービスに要するコスト構造が
有形商品の製造&販売に比べて見えにくい
(=多くの企業が正確な情報の開示を怠ってきた)からではないか、
また、サービスの価値品質とコストをお客さまが適正に評価できる
仕組みづくり&能力開発を国、学校、企業が怠ってきたからではないか、
と私は考えています。
(※以下、守秘義務内容が含まれる為、省略します。)
--------------------------------------
私は、Uさんに心からお詫びを申し上げる所存だ。(礼)
でも、謝るだけならサルでもできる。(笑)
そこで、私は、次回Uさんに会った際、リカバリーショットを打つべく(笑)、ひとまず以下を自問自答することにしてみた。
--------------------------------------
【問い】
なぜ、人的サービスは、サービス提供者とお客さまの関係性が、奴隷と主人ではなく、フィフティ・フィフティ(50:50)の時に、高品質が高確率で達成される(=お客さま満足が高確率で高くなる)のか?
【答え】
人的サービスとは、サービス提供者が、お客さまを、”one of the customers(=お客さまの一人)"ではなく、"only the customer(=”その”お客さま)"として見、”その”お客さまの顕在的(意識的)及び潜在的(無意識的)ニーズを把握し、それらを満たすと判断した価値を消費可能コストの中で創造し、提供する無形商品である。
「サービス提供者とお客さまの関係性がフィフティ・フィフティである」というのは、リッツ・カールトンがクレド(信条)で「We Are Ladies and Gentlemen Serving Ladies and Gentlemen.(紳士淑女におもてなしするわたしたち(=サービスを提供する社員)も紳士淑女です。”)と表しているように、サービス提供者が”その”お客さまを、また、”その”お客さまが”その”サービス提供者を、それぞれ社会に欠かせない異質の他者として評価している状態のことである。
人は、他者から評価されることを好む。
人は、自分が”その”人から異質の他者として評価されていると実感すると、更に高く評価されるべく、”その”人に対して自助努力の限りを尽くす。
サービス提供者は、自分と”その”お客さまとの関係性をフィフティ・フィフティであると認識すると、”その”お客さまからより高く評価されるべく、ニーズの把握に一層勤しむのはもちろん、それらを最も満たすと判断した価値を消費可能最大コストで創造し、ハートフルに提供する。
一方、お客さまも、自分と”その”サービス提供者との関係性をフィフティ・フィフティであると認識すると、”その”サービス提供者からより高品質な価値を提供してもらうべく、自分のニーズをより明確に伝えるなど”その”サービス提供者を支援するのはもちろん、「ノー(=それはできかねます)」及びそれに基く代替提案を努力成果として受諾する。
結果、”その”サービス提供者は、”その”お客さまに対し高確率で高品質な価値を提供でき、”その”お客さまは高確率で高い満足を得る。
「サービス提供者とお客さまの関係性が奴隷と主人である」というのは、サービス提供者がお客さまを売上対象物とみなし、かつ、お客さまがサービス提供者を価値献上ロボットとみなしている状態のことである。
人は、他者をロボット呼ばわりする場合、その人の人格を無視している。
人は、他者から人格を無視されることを好まない。
人は、自分の人格が”その”人から無視されていると実感すると、”その”人から消費可能最小コストで離れるべく、”その”人に対して必要最低限の努力を行う。
サービス提供者は、自分と”その”お客さまとの関係性を奴隷と主人であると認識すると、極めて逞しい精神、卓越したセルフコントロール、高邁な目標といったものを持っていない限り、”その”売上対象物から消費可能最低コストで離れるべく、クレームが付かない、最低品質の価値の創造及び提供に終始する。
一方、お客さまは、自分と”その”サービス提供者との関係性を主人と奴隷であると認識すると、”その”価値献上ロボットから相応の価値を献上させるべく、尊大な姿勢で圧力をかけながら過大な要求を突きつけ、「ノー(=それはできかねます)」及びそれに基く代替提案を不努力成果として拒絶する。
結果、”その”サービス提供者は、”その”お客さまに対し高確率で最低品質の価値を提供し、”その”お客さまは高確率で不満を抱く。
以上により、人的サービスは、サービス提供者とお客さまの関係性が、奴隷と主人ではなく、フィフティ・フィフティ(50:50)の時に、高品質が高確率で達成される(=お客さま満足が高確率で高くなる)、と考える。
--------------------------------------
これらの答えを出すのは、かなりハードだった。(汗)
次回Uさんに会った際、リカバリーショットが打てるよう強く願うばかりだ。(笑)
<参考情報>
★なぜ「フィフティ・フィフティ」なのか?(「愛されるサービス」著・新川義弘、P18)
とかくウェイターは、VIPに対しては慇懃に、一般のお客さまに対してはよそよそしく、馴染みのお客さまに対しては馴れ馴れしく接客しがちではないでしょうか。それでは本当のサービスマンとは言えません。
もちろん、TPOによって接し方は変わってきます。しかし大切なのは、サービスする人とサービスされる人は基本的に「フィフティ・フィフティ」の関係にあるということです。お金を払うのだから一方的に言うことを聞けというのもおかしな話ですし、お金をいただくのだから相手の言いなりになるというのもおかしな話なのです。むろん、相手のことを考えずにサービスを押し付けるのも間違いです。
アメリカやヨーロッパのレストランに行くと、よくウエイターが話しかけてきます。「僕はデービットと言うんだけれど、あなたはなんて言うの。ヨシヒロか」という具合です。それで私が「ヒロって呼んでいいよ」と答えると、それからは必ず「ヒロ」が会話の頭に付いてきます。
「ヒロ、なに飲みたい?」
「ヒロ、次はなに食べる?」
「ヒロ、デザートはどうする?」
そうすることで、お客さまとウエイターの距離が自然と近づくわけです。お客さまがそれをうっとうしいと思えば、拒否すればいい。でもお客さまが「今日は私を楽しませてよ」「好きなものを食べさせてよ」「わがまま言わせてよ」と思っていたら、そこに入っていくのがサービスというものだと思います。腕のいいウェイターならばそんなときは、お客さまの雰囲気を敏感に読み取って「よし、わかった。今日は私が楽しませてあげるから、なんでも言ってくださいよ」と応じるはずです。
これが私の言う「フィフティ・フィフティ」の関係です。ウエイターが最初から過剰にお客さまに対してへり下ったりせず、まずは「フィフティ・フィフティ」の関係になる。その上で、お客さまの望むサービスを察知して、ある時は優秀な給仕に徹し、ある時はエンターテイナーとしてお客さまを喜ばせる。これがサービスの基本だと思います。
★お客様に絶対「ノーと言わない」サービス(「リッツ・カールトンで学んだ仕事でいちばん大事なこと」著・林田正光、P32)
リッツカールトンの接客の特長をひと言で表すなら、「ノーと言わない」ということです。
お客様から何かを頼まれたら「かしこまりました」「喜んで」と応じ、どんな細かい頼みごとにも誠心誠意お応えします。
開業準備段階から私たちは「ノーと言わないホテルになること」と目指してきました。
最初は私自身、「そんなことができるのだろうか」と半信半疑だったのですが、リッツの先輩たちはそれをやっていたのです。
以前耳にした「リッツ・カールトン・ミスティーク(神秘性)」を、今度は自分自身の手で行うようになったわけです。
たとえば、お客様から宿泊の予約のお電話をいただいたときに、あいにく満室だったとしましょう。
このとき「申し訳ございません。あいにく満室でございまして・・・」と言ったのでは「ノー」と言っているのと同じです。
そのような場合、リッツ・カールトンでは、「私どものホテルはいっぱいなのですが、差し支えなければ近くのホテルの空き状況と料金を聞いてご連絡を差し上げます。いかがでございましょうか」と提案します。すると「そこまでしてくれるのか」とお客様に感動していただけます。
(中略)
一つひとつは小さなことかもしれませんが、全従業員が「ノー」と言わないサービスを提供することによって、お客様は感動され、「あそこのホテルはちょっと違う」と思ってくださり、それが次のご利用へとつながっていくのです。
★お客さま第一主義(「プロ経営者の条件」著・折口雅博、P109)
お客さまが何を望み、何をすれば喜んでもらえるのかを常に考えている。それは、ひと言で言えば「お客さま第一主義」という言葉で表現できます。言葉で言うのは簡単ですが、コムスンはこれを本当に貫こうとしています。お客さまの満足度を最高にすることを第一としている。だからこそ、コムスンは強いのです。
お客さま第一主義という立場に立つと、ときにはコムスンのサービスが、お客さまへのサービスメニューに入らないこともあります。つまり他社のサービスを活用するわけです。高齢者のニーズをふまえたケアプランを作成し、サービス事業者などと利用調整を行うケアマネージャーの規範は、中立で公正であることです。たとえコムスンに所属するケアマネージャーであっても、必ずしも自社のサービスをプランに入れるとは限りません。
コムスンのサービスはいいですから、どうぞコムスンに、と言いたいところですが、もし、そのときタイムリーに最適のサービスを用意することができない場合は、他社にお願いすることもあるわけです。
ケアプラン作成の料金は安いものですから、正直に言えばプランを作成しても、経費も出ないのが事実です。それでもケアマネージャーを会社に置くのは、プランを作ったヒトが責任を持ってサービスの点検、修正をするという意味をこめているからです。お客さまの満足のために、そう考えているのです。
また、お客さま第一主義といっても、お客さまの言うとおりのケアプランを立てるのが最良なわけではありません。本当の利用者本位とは何かを考え続けることが、ケアマネージャーの永遠の課題になります。介護とは、要求通りの世話をすることではないのです。ただ世話をするだけなら、どんどん衰えてしまうのです。
自立を守るということは、暮らしの中にリハビリを入れるということです。自立した生活をサポートする。認知症の方に刺激を与え、感動を与える。それが自立を守ることですし、いっそう悪くさせないための予防にもなります。ケアマネージャーは、そうしたケアプランを積極的に立てていくべきだと思っています。
お客さま第一主義とは、その人にとって最もふさわしいあり方を一緒に考え、創造していくことだと私は思うのです。
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私は、Uさんへのお返事書きを始めた。
私は、お返事を書く際、頂戴した文章を引用し、それに対して個別にレスをしている。
私は、Uさんの文章に引用符を付け、それぞれにレスをつけ始めた。
私は、以下の問いに、なかなかレスをつけることができなかった。
なぜなら、比較的よく出てくるこの問いに対して、これまで自分の考えを明らかにしてこなかったからだ。
> 日本の企業は「サービス」とは「奴隷のように奉仕する」
> 「決して顧客に逆らわない」なんて考えているふしが
> ヒシヒシと感じられるんですが気のせいですかね!
時間に切迫された私は、非常にずるい方策を選択した。
それは、この問いに対して直接的に回答せずに、持論を展開からだ。(笑)
以下が、私のレスである。
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気のせいではないと思います。(笑)
日本におけるサービスの主たる概念は、
「自己犠牲を伴いながら無料かつ隷属的に仕えること」
ではないか、と私は考えています。
宮本さんからご紹介いただいた友達の一人である
レストラン業を営む(株)HUGEの新川社長が唱える
「ホスピタリティは50:50の関係から生まれる」という考え(↓)は、
http://blog.livedoor.jp/masterhori/archives/50447527.html
日本では必ずしも主流ではありません。
私は、こうした背景に、
「有形商品=お金を払うべき」
「無形商品=お金を払うべきでない」
という、モノづくり国民の血があるような気がしています。(笑)
日本の企業が物品購入コストには物凄くシビアな反面、
会議やサービス残業が要求する時間&人的コストに寛容なのも、
私はこの血のせいだと思っています。(笑)
ビジネスにおけるサービスには必ずコストがかかっています。
それをお客さまに要求すること、お客さまが支払うことは当然です。
にも関らず、それがなかなか実行されないのは、
先の血<=国民文化)のほか、サービスに要するコスト構造が
有形商品の製造&販売に比べて見えにくい
(=多くの企業が正確な情報の開示を怠ってきた)からではないか、
また、サービスの価値品質とコストをお客さまが適正に評価できる
仕組みづくり&能力開発を国、学校、企業が怠ってきたからではないか、
と私は考えています。
(※以下、守秘義務内容が含まれる為、省略します。)
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私は、Uさんに心からお詫びを申し上げる所存だ。(礼)
でも、謝るだけならサルでもできる。(笑)
そこで、私は、次回Uさんに会った際、リカバリーショットを打つべく(笑)、ひとまず以下を自問自答することにしてみた。
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【問い】
なぜ、人的サービスは、サービス提供者とお客さまの関係性が、奴隷と主人ではなく、フィフティ・フィフティ(50:50)の時に、高品質が高確率で達成される(=お客さま満足が高確率で高くなる)のか?
【答え】
人的サービスとは、サービス提供者が、お客さまを、”one of the customers(=お客さまの一人)"ではなく、"only the customer(=”その”お客さま)"として見、”その”お客さまの顕在的(意識的)及び潜在的(無意識的)ニーズを把握し、それらを満たすと判断した価値を消費可能コストの中で創造し、提供する無形商品である。
「サービス提供者とお客さまの関係性がフィフティ・フィフティである」というのは、リッツ・カールトンがクレド(信条)で「We Are Ladies and Gentlemen Serving Ladies and Gentlemen.(紳士淑女におもてなしするわたしたち(=サービスを提供する社員)も紳士淑女です。”)と表しているように、サービス提供者が”その”お客さまを、また、”その”お客さまが”その”サービス提供者を、それぞれ社会に欠かせない異質の他者として評価している状態のことである。
人は、他者から評価されることを好む。
人は、自分が”その”人から異質の他者として評価されていると実感すると、更に高く評価されるべく、”その”人に対して自助努力の限りを尽くす。
サービス提供者は、自分と”その”お客さまとの関係性をフィフティ・フィフティであると認識すると、”その”お客さまからより高く評価されるべく、ニーズの把握に一層勤しむのはもちろん、それらを最も満たすと判断した価値を消費可能最大コストで創造し、ハートフルに提供する。
一方、お客さまも、自分と”その”サービス提供者との関係性をフィフティ・フィフティであると認識すると、”その”サービス提供者からより高品質な価値を提供してもらうべく、自分のニーズをより明確に伝えるなど”その”サービス提供者を支援するのはもちろん、「ノー(=それはできかねます)」及びそれに基く代替提案を努力成果として受諾する。
結果、”その”サービス提供者は、”その”お客さまに対し高確率で高品質な価値を提供でき、”その”お客さまは高確率で高い満足を得る。
「サービス提供者とお客さまの関係性が奴隷と主人である」というのは、サービス提供者がお客さまを売上対象物とみなし、かつ、お客さまがサービス提供者を価値献上ロボットとみなしている状態のことである。
人は、他者をロボット呼ばわりする場合、その人の人格を無視している。
人は、他者から人格を無視されることを好まない。
人は、自分の人格が”その”人から無視されていると実感すると、”その”人から消費可能最小コストで離れるべく、”その”人に対して必要最低限の努力を行う。
サービス提供者は、自分と”その”お客さまとの関係性を奴隷と主人であると認識すると、極めて逞しい精神、卓越したセルフコントロール、高邁な目標といったものを持っていない限り、”その”売上対象物から消費可能最低コストで離れるべく、クレームが付かない、最低品質の価値の創造及び提供に終始する。
一方、お客さまは、自分と”その”サービス提供者との関係性を主人と奴隷であると認識すると、”その”価値献上ロボットから相応の価値を献上させるべく、尊大な姿勢で圧力をかけながら過大な要求を突きつけ、「ノー(=それはできかねます)」及びそれに基く代替提案を不努力成果として拒絶する。
結果、”その”サービス提供者は、”その”お客さまに対し高確率で最低品質の価値を提供し、”その”お客さまは高確率で不満を抱く。
以上により、人的サービスは、サービス提供者とお客さまの関係性が、奴隷と主人ではなく、フィフティ・フィフティ(50:50)の時に、高品質が高確率で達成される(=お客さま満足が高確率で高くなる)、と考える。
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これらの答えを出すのは、かなりハードだった。(汗)
次回Uさんに会った際、リカバリーショットが打てるよう強く願うばかりだ。(笑)
<参考情報>
★なぜ「フィフティ・フィフティ」なのか?(「愛されるサービス」著・新川義弘、P18)
とかくウェイターは、VIPに対しては慇懃に、一般のお客さまに対してはよそよそしく、馴染みのお客さまに対しては馴れ馴れしく接客しがちではないでしょうか。それでは本当のサービスマンとは言えません。
もちろん、TPOによって接し方は変わってきます。しかし大切なのは、サービスする人とサービスされる人は基本的に「フィフティ・フィフティ」の関係にあるということです。お金を払うのだから一方的に言うことを聞けというのもおかしな話ですし、お金をいただくのだから相手の言いなりになるというのもおかしな話なのです。むろん、相手のことを考えずにサービスを押し付けるのも間違いです。
アメリカやヨーロッパのレストランに行くと、よくウエイターが話しかけてきます。「僕はデービットと言うんだけれど、あなたはなんて言うの。ヨシヒロか」という具合です。それで私が「ヒロって呼んでいいよ」と答えると、それからは必ず「ヒロ」が会話の頭に付いてきます。
「ヒロ、なに飲みたい?」
「ヒロ、次はなに食べる?」
「ヒロ、デザートはどうする?」
そうすることで、お客さまとウエイターの距離が自然と近づくわけです。お客さまがそれをうっとうしいと思えば、拒否すればいい。でもお客さまが「今日は私を楽しませてよ」「好きなものを食べさせてよ」「わがまま言わせてよ」と思っていたら、そこに入っていくのがサービスというものだと思います。腕のいいウェイターならばそんなときは、お客さまの雰囲気を敏感に読み取って「よし、わかった。今日は私が楽しませてあげるから、なんでも言ってくださいよ」と応じるはずです。
これが私の言う「フィフティ・フィフティ」の関係です。ウエイターが最初から過剰にお客さまに対してへり下ったりせず、まずは「フィフティ・フィフティ」の関係になる。その上で、お客さまの望むサービスを察知して、ある時は優秀な給仕に徹し、ある時はエンターテイナーとしてお客さまを喜ばせる。これがサービスの基本だと思います。
★お客様に絶対「ノーと言わない」サービス(「リッツ・カールトンで学んだ仕事でいちばん大事なこと」著・林田正光、P32)
リッツカールトンの接客の特長をひと言で表すなら、「ノーと言わない」ということです。
お客様から何かを頼まれたら「かしこまりました」「喜んで」と応じ、どんな細かい頼みごとにも誠心誠意お応えします。
開業準備段階から私たちは「ノーと言わないホテルになること」と目指してきました。
最初は私自身、「そんなことができるのだろうか」と半信半疑だったのですが、リッツの先輩たちはそれをやっていたのです。
以前耳にした「リッツ・カールトン・ミスティーク(神秘性)」を、今度は自分自身の手で行うようになったわけです。
たとえば、お客様から宿泊の予約のお電話をいただいたときに、あいにく満室だったとしましょう。
このとき「申し訳ございません。あいにく満室でございまして・・・」と言ったのでは「ノー」と言っているのと同じです。
そのような場合、リッツ・カールトンでは、「私どものホテルはいっぱいなのですが、差し支えなければ近くのホテルの空き状況と料金を聞いてご連絡を差し上げます。いかがでございましょうか」と提案します。すると「そこまでしてくれるのか」とお客様に感動していただけます。
(中略)
一つひとつは小さなことかもしれませんが、全従業員が「ノー」と言わないサービスを提供することによって、お客様は感動され、「あそこのホテルはちょっと違う」と思ってくださり、それが次のご利用へとつながっていくのです。
★お客さま第一主義(「プロ経営者の条件」著・折口雅博、P109)
お客さまが何を望み、何をすれば喜んでもらえるのかを常に考えている。それは、ひと言で言えば「お客さま第一主義」という言葉で表現できます。言葉で言うのは簡単ですが、コムスンはこれを本当に貫こうとしています。お客さまの満足度を最高にすることを第一としている。だからこそ、コムスンは強いのです。
お客さま第一主義という立場に立つと、ときにはコムスンのサービスが、お客さまへのサービスメニューに入らないこともあります。つまり他社のサービスを活用するわけです。高齢者のニーズをふまえたケアプランを作成し、サービス事業者などと利用調整を行うケアマネージャーの規範は、中立で公正であることです。たとえコムスンに所属するケアマネージャーであっても、必ずしも自社のサービスをプランに入れるとは限りません。
コムスンのサービスはいいですから、どうぞコムスンに、と言いたいところですが、もし、そのときタイムリーに最適のサービスを用意することができない場合は、他社にお願いすることもあるわけです。
ケアプラン作成の料金は安いものですから、正直に言えばプランを作成しても、経費も出ないのが事実です。それでもケアマネージャーを会社に置くのは、プランを作ったヒトが責任を持ってサービスの点検、修正をするという意味をこめているからです。お客さまの満足のために、そう考えているのです。
また、お客さま第一主義といっても、お客さまの言うとおりのケアプランを立てるのが最良なわけではありません。本当の利用者本位とは何かを考え続けることが、ケアマネージャーの永遠の課題になります。介護とは、要求通りの世話をすることではないのです。ただ世話をするだけなら、どんどん衰えてしまうのです。
自立を守るということは、暮らしの中にリハビリを入れるということです。自立した生活をサポートする。認知症の方に刺激を与え、感動を与える。それが自立を守ることですし、いっそう悪くさせないための予防にもなります。ケアマネージャーは、そうしたケアプランを積極的に立てていくべきだと思っています。
お客さま第一主義とは、その人にとって最もふさわしいあり方を一緒に考え、創造していくことだと私は思うのです。
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この記事へのコメント
深いテーマですね。
お客様のニーズはこちらがへりくだることで満たされるとは限らないですからね。
さじ加減もあるので、ひとつの答えにはなり難いものだと思います。
Posted by ミヤモト at 2006年07月20日 00:51
ミヤモトさん
> 深いテーマですね。
いや、ホント、深かったです。(汗・笑)
文中でも述べていますが、合理的に解析するのはしんどかったです。(笑)
> さじ加減もあるので、ひとつの答えにはなり難いものだと思います。
勿論、答えは人の数だけあると思います。
上記の内容は、自身の経験とそこから垣間見た本質を基に確率論の観点から解析した、ひとつの考察に過ぎません。
Posted by 堀 at 2006年07月20日 14:55