2006年09月18日

復活した吉野家の牛丼を食べて複雑な感情を抱くの巻

cd293279.JPG今日、吉野家が「復活祭」なる社外マーケティングを実行し、数量限定で牛丼を販売した。
当然私は、復活を遂げた<吉野家の牛丼>を食べた。(笑)

私は、吉野家の20年来の一ファンとして、約2年半ぶりに<吉野家の牛丼>が食べられて、とても嬉しかった。
しかしながら、私は、同時に、懐疑と遺憾が入り混ざった、複雑な感情を抱いた。

なぜ、私は、そのような複雑な感情を抱いたのか。
それは、<吉野家の牛丼>が真に復活した、と思えなかったからだ。
なぜ、私は、<吉野家の牛丼>が真に復活した、と思えなかったのか。
その主だった理由は、以下の二つだ。

一つ目の理由。
それは、味が変わっていたから、だ。

今日食べた<吉野家の牛丼>は、決して不味くはなかったが、当時の味と異なっていた。
具体的に言うと、味が薄くなっていた、のだ。
舌に自信が無い私は(笑)、後で、今日復活した<吉野家の牛丼>の賞味レポートブログ記事を相当数見た。
同様の感想を述べている方は、決して少なくなかった。

かつて販売していた商品を再度販売する際、その社外マーケティングプランを「復活」と銘打つのであれば、当時の品質が担保されていなければいけない。
安部修仁社長は、これまで一貫して、「アメリカ牛でなければ、<吉野家の牛丼>の味は出せない。ゆえに、アメリカ牛が手に入らない今、当社は牛丼を販売できない。」旨を各種メディアを通じて語り、吉野家という会社が、牛丼という商品の品質(味)、ひいてはブランド(=商品品質の担保性)をいかに大事に考えているか、消費者へアピールしてきた。
このことと、今日の「復活祭」と銘打たれた社外マーケティングの実は、矛盾していないだろうか。

二つ目の理由。
それは、商品の価値が、当時の価格に100円加算するに足るものと思えなかったから、だ。

もちろん、ワンコインにも満たない価格でこれだけ美味しい商品を提供できることは、素晴らしい。
また、アメリカ牛の調達コストが以前よりも高くなっていることも、わからないでもない。
でも、それはそれで、これはこれだ。

吉野家は、原材料として高コストなアメリカ牛を使ったものの、当時の味を担保できなかった。
にも関らず、コスト上昇分を価格に転嫁し、すき家や松屋といった競合企業よりも高額な支払いをお客さまに要求した。

吉野家は、これまで、会社再生法を申請したり、デフレの大きな圧力をかけられてきた。
そして、そうした苦境の中で、価格を越える価値を創出することにに執心してきた。
(※このことについては、「吉野家再建」や「吉野家の経済学」を参照頂きたく。)



吉野家の経済学 (日経ビジネス人文庫)
安部 修仁
日本経済新聞社
2002-01


このことと、今日復活した<吉野家の牛丼>の価値とその価格は、矛盾していないだろうか。

こうして考えてみると、吉野屋が今日実行した「復活祭」は、商品の稀少性のみを訴求する、吉野家ファンの同社へのロイヤリティに甘えた、低品質な社外マーケティングなのかもしれない。

不遜な仮定であるのは重々承知しているが、もし私が吉野家の社長であれば、今回の社外マーケティングの品質を高められたかもしれない。(笑)

マーケティングの方向性は、「蘇生」、「再生」、「お詫び」、「感謝」といったものをキーワードにすると共に、それに相応しい名称を付ける。
当日の店舗運営は、on the job trainingを兼ねた、レセプションパーティー的なものにする。
告知は、マスメディアを使わず、店舗や自社webで行い、コストを抑制する。
2年半という空白期間によってさび付いてしまったであろう調理技術は、然るべきoff the job trainingや評価システムを案出&実行することで、向上を果たす。
価格は、<吉野家の牛丼>を今尚愛して下さっていることの感謝、及び、長期間提供できなかったこととon the job trainingのお詫びの意味から、据え置く(=280円)か、経営余力次第で250円に下げる。

また<吉野家の牛丼>が食べられる日は、既に決定している。
10月1〜5日の5日間だ。
ちなみに、次回は、「復活祭」ではなく、「牛丼祭」と銘打たれていたりする。(笑)

もちろん、私は、また<吉野家の牛丼>を食べるつもりだ。(笑)
その時は、今回抱いた複雑な感情を抱かなくて済むよう、いや、高い満足感が得られるよう、切に願っている。

gyudon02



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この記事へのコメント
実は僕も大の吉野家の牛丼好きです。

僕は、今回は行きませんでした。
吉野家は「安くて早くてうまいから行くお店」です。
それが実現されないのなら行きたくないなと思ったんです。
でも、次回の牛丼祭はある程度実現されるかも・・・という淡い期待を持っているので、行くつもりです。
あー、早く、大盛りつゆだく、玉子とみそ汁!って言いたい!

でも、写真を見ると明らかに味が薄そうな色してますよね・・・
Posted by ヤッシー at 2006年09月29日 12:12
ちょっとコメント欲が湧いてしまって、書き込ませていただきました。

味が薄いのは、仕方ないんじゃないかな、と思います。というのも、当時から吉野家は時間帯で味が違っていましたから。お昼の戦争時は元々味が薄かったですよ。逆に人通りの少ないところの閑散時間帯なんて、タマネギも真っ茶色のぐちょぐちょでしたし。今回は行列を捌いたわけですから、往年のお昼の戦争時状態だったことが想像されます(今回食べていないので、比較はできませんが、ちなみに私はお昼の薄味が好きでしたので、今回のは私向きだったのかも)。
280円とか380円のモノの品質は、その程度でも許容範囲だと思っています。
(つづく)
Posted by GIN at 2006年09月30日 00:25
今の日本人はやれ安くしろ、しかしいいものを出せ、というのを声高に叫びすぎている気がします。「リーズナブル」は「安価」と等価ではありません。「リーズナブルでいいものを」なら納得できます。しかしひたすら安くして、しかしいいもの出せ、というのは、どこかに歪みが出るのが当たり前のような気がしてなりません。

それに私は、並盛り350円〜400円が妥当だと思っています。280円という価格には、牛や米に対する敬意を感じず、単なる「胃袋満たし物」に成り下がってしまったような感じを受けました。実際280円にしてから、私はしばらく吉野家の牛丼を食べませんでした。どうせすぐ音を上げるだろうと思っていたので、価格が戻ったらまた、と考えていました。そうしたら音をあげなかったし、元々吉野家の牛丼が好きだったので、晩年はちょこっと食べていましたが。
(つづく)
Posted by GIN at 2006年09月30日 00:25
これは私の、吉野家が280円に音下げたときから考えさせられていたことですので、今回のことをきっかけに、価格も正常に戻ることを期待しています(ここでいう「正常」とは、私の勝手な基準ですが(^^;))。

ちなみに今回は日本にいたにもかかわらず、食べませんでした。その日は札幌にいて1日中忙しかったこともありますが、ブッシュへの手土産で解禁した、という経緯が何となく気にくわなかったから、あまり意欲が湧きませんでしたね。BSEのことは気にしていませんが。
(おしまい;文字数制限により3部構成となってしまいました(^^;))
Posted by GIN at 2006年09月30日 00:26
ヤッシーさん

> でも、次回の牛丼祭はある程度実現されるかも・・・という淡い期待を持っているので、行くつもりです。
次回の牛丼販売日は5日間に渡るため、お客さまの来店も分散されるのでしょうから、「早い」については実現の可能性が大である、と私も思います。
あとは、懸案の「旨い」が”かつての旨さ(味)”を実現してくれることを願うばかりです。
Posted by at 2006年09月30日 07:14
GINさん

共に吉牛ファンであるGINさんのお考え、参考になったのは勿論、多々共感しました。

「リーズナブル」の意味が「合理的な」「道理に叶った」であることから、「リーズナブルな値段」とは、「安価」ではなく、【価値>価格】又は最悪【価値=価格】の関係性を達成している値段である、というお考えはその通りだと思います。

私は、9月18日の14時30分に食べたのが単なる<牛丼>であれば、【価値>価格】の関係性を十分見出せたと思います。
が、私が当時食べたのは、「復活」と銘打たれた<吉牛>です。
私は、吉野家のこれまでの取り組みから、”かつての味”が必ず担保されている、と勝手に信じていました。(笑)
また、私は、過去<吉牛>の品質(味)が時間帯により差異があることを経験していませんでした。
ゆえに、私は、当時食べた<吉牛>から、【価値>価格】の関係性を見出せなかったのです。

いつか、吉牛もご一緒しましょう!
Posted by at 2006年09月30日 07:29