2008年09月06日
福田康夫首相の辞任記者会見を見て批判と意見について再考するの巻
日本は、間接民主制をとっている。
首相は、私たち日本人が、間接的にではあるものの、私たちが選んだ日本の宰相だ。
宰相の役割は、つまるところ、国家のありようを決定し、錯綜した利害関係を整理&統合することだ。
国家のありようを決定し、錯綜した利害関係を整理&統合することは、究極の難事だ。
その究極の難事を務めてくださっていた福田康夫首相が、過日辞意を表明なさった。
当時、懸案の映画であった「嫌われ松子の一生」を見ていた私は(笑)、辞任記者会見をリアルタイムで見た。
予め断っておくが、私は、福田康夫さんを政治家として支持している訳ではない。
また、福田首相が断行した一ヶ月前の組閣が税金の無駄遣いに帰結したであろうことを宥恕している訳でもなければ、政治に精通している訳でもない。
そんな私だが、辞任記者会見が終了した時、二つのことが頭に浮かんだ。
首相は、私たち日本人が、間接的にではあるものの、私たちが選んだ日本の宰相だ。
宰相の役割は、つまるところ、国家のありようを決定し、錯綜した利害関係を整理&統合することだ。
国家のありようを決定し、錯綜した利害関係を整理&統合することは、究極の難事だ。
その究極の難事を務めてくださっていた福田康夫首相が、過日辞意を表明なさった。
当時、懸案の映画であった「嫌われ松子の一生」を見ていた私は(笑)、辞任記者会見をリアルタイムで見た。
予め断っておくが、私は、福田康夫さんを政治家として支持している訳ではない。
また、福田首相が断行した一ヶ月前の組閣が税金の無駄遣いに帰結したであろうことを宥恕している訳でもなければ、政治に精通している訳でもない。
そんな私だが、辞任記者会見が終了した時、二つのことが頭に浮かんだ。
一つ目。
それは、「福田首相へ、ひと言『お疲れさまでした』と申し上げたい」、ということだ。
もしかすると、あなたさまは、こう思われるかもしれない。
「政治は結果責任であり、現時点で結果を出していない首相にそれは無用では?」と。
私も、政治は、経営と同様、結果責任が問われて然るべきだと思う。
が、現時点で結果を出しているか否かの評価と、たとえ短期間であれ、自分の代わりに究極の難事を務めてくださったことへのねぎらいは別の話だ、と思う。
二つ目。
それは、「自分の身の安全を盾に、具体的な根拠や対案も無く、非合理的に他者を批判したところで、批判された側の人(=被批判者)と批判した側の人(=批判者)のいずれも報われない」、ということだ。
もしかすると、あなたさまは、こう思われるかもしれない。
「政治家は、有権者が選び、有権者が食べさせている公僕であり、そのトップにいる首相は、結果を出せない間、報われようが報われまいが、批判されて然るべきである」と。
私も、政治家は公僕であり、そのトップにいる首相は、とりわけ結果が出ない間、有権者から批判を受けて然るべきだと思う。
が、首相とはいえ、所詮は同じ人間だ。
具体的な根拠や対案も無く、やみくもに批判されれば、解決行動を実行する気概自体が殺がれてしまう、と思う。
そもそも、批判とは何か。
私は、批判を、他者の言動の非合理性やリスクを指摘すること、と認識している。
具体的な対案も無く、単に批判するだけなら、多少の知性と経験さえあれば、誰でもできる。
だから(?)、有権者の代表を標榜するマスメディアは、漸減していった内閣支持率を引き合いに、福田首相を、「国民目線でない」とか「リーダーシップがない」とか「ひとごと」と、事ある毎に批判してきた。
とどのつまりは、そうして退陣を迫っておきながら、いざ辞任が決まると「無責任」とか「放り投げ」と批判した。
これらは、竹中平蔵さんが定義した以下の「批判の三パターン」に当てはまる、非合理的な批判だ。
余談かつ私見だが、マスメディアは福田首相が下した意思決定を厳しく批判しているが、果たしてそうなのだろうか。
難事を完遂するには、相応の能力と気概が欠かせない。
それが、究極の難事であれば尚更だ。
ただ、能力はそうそうつくものではないし、一旦失った気概もそうそう上がるものではない。
もちろん、現在担っている役割と責任を完遂するべく、自助努力は尽くすべきだ。
が、能力や気概が不足していることが明らかになったのであれば、在任期間が短かかろうと、リスクが大きくなる前に後進へ道を譲るのも、日本という国の全体最適や持続的発展を考えるとアリなのではないだろうか。
話を批判について戻すが、私は、そもそも、人は「批判する」ものではなく、「意見する」ものだ、と思っている。
そして、人に意見をする際に欠かせないのは、提唱した対案をいざという時に代行完遂できる能力と気概だ、と思っている。
なぜなら、批判が報われないのは、意見、即ち、「解決へ向けたアプローチ」や「解決の具体策」が無く、かつ、批判者が相応の実現性と本気度を基に批判しているのか疑わしいため、被批判者が具体的な解決行動を先送りにしてしまう(→結局やらない)からだ。
ちなみに、私は、仕事柄意見をよくする。(笑)
が、いずれも、提唱した対案をいざという時に代行完遂できる自信がある場合だけだ。
私は、冒頭で述べた通り、政治に精通しておらず、対案を提唱したり、いざという時に代行完遂できる能力と気概を持ち合わせていない。
だから、首相はもちろん、自分が選んだ政治家の仰せには従うまでだ。(笑)
以上が、辞任会見が終了した時、頭に浮かんだ事項だ。
懸案の映画であった「嫌われ松子の一生」を見るのがまたしても先に延びたのは残念だが(笑)、自分が選んだ首相の最後のスピーチを目の当たりにできたこと、並びに、批判と意見について再考できたことには満足している。
<関連記事>
渡辺明竜王の意見表明に触発されるの巻
グッドウィルグループの折口雅博会長兼CEOがマスメディアから批判されている様を見、批判について考えるの巻
某ジャーナリスト氏の安易な同情から同情の要件を反面教師的に学ぶの巻
「なぜ、政治家は自分の誤りを認めないのか」について考えるの巻
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それは、「福田首相へ、ひと言『お疲れさまでした』と申し上げたい」、ということだ。
もしかすると、あなたさまは、こう思われるかもしれない。
「政治は結果責任であり、現時点で結果を出していない首相にそれは無用では?」と。
私も、政治は、経営と同様、結果責任が問われて然るべきだと思う。
が、現時点で結果を出しているか否かの評価と、たとえ短期間であれ、自分の代わりに究極の難事を務めてくださったことへのねぎらいは別の話だ、と思う。
二つ目。
それは、「自分の身の安全を盾に、具体的な根拠や対案も無く、非合理的に他者を批判したところで、批判された側の人(=被批判者)と批判した側の人(=批判者)のいずれも報われない」、ということだ。
もしかすると、あなたさまは、こう思われるかもしれない。
「政治家は、有権者が選び、有権者が食べさせている公僕であり、そのトップにいる首相は、結果を出せない間、報われようが報われまいが、批判されて然るべきである」と。
私も、政治家は公僕であり、そのトップにいる首相は、とりわけ結果が出ない間、有権者から批判を受けて然るべきだと思う。
が、首相とはいえ、所詮は同じ人間だ。
具体的な根拠や対案も無く、やみくもに批判されれば、解決行動を実行する気概自体が殺がれてしまう、と思う。
そもそも、批判とは何か。
私は、批判を、他者の言動の非合理性やリスクを指摘すること、と認識している。
具体的な対案も無く、単に批判するだけなら、多少の知性と経験さえあれば、誰でもできる。
だから(?)、有権者の代表を標榜するマスメディアは、漸減していった内閣支持率を引き合いに、福田首相を、「国民目線でない」とか「リーダーシップがない」とか「ひとごと」と、事ある毎に批判してきた。
とどのつまりは、そうして退陣を迫っておきながら、いざ辞任が決まると「無責任」とか「放り投げ」と批判した。
これらは、竹中平蔵さんが定義した以下の「批判の三パターン」に当てはまる、非合理的な批判だ。
【1】とにかく反対の立場をとる。
例:改革が早ければ「拙速だ」と批判する。遅ければ「こんなことでは事は進まない」と批判する。
【2】永遠の真理をかざす。
例:「もっと皆の言うことを聞く」。「生活者の目線を大切にして」。
【3】批判する相手にレッテルやラベルを貼る。
例:「竹中は市場原理主義者だ」。「小泉は経済がわかっていない」。
(※)「構造改革の真実 竹中平蔵大臣日誌」P227〜228から引用
余談かつ私見だが、マスメディアは福田首相が下した意思決定を厳しく批判しているが、果たしてそうなのだろうか。
難事を完遂するには、相応の能力と気概が欠かせない。
それが、究極の難事であれば尚更だ。
ただ、能力はそうそうつくものではないし、一旦失った気概もそうそう上がるものではない。
もちろん、現在担っている役割と責任を完遂するべく、自助努力は尽くすべきだ。
が、能力や気概が不足していることが明らかになったのであれば、在任期間が短かかろうと、リスクが大きくなる前に後進へ道を譲るのも、日本という国の全体最適や持続的発展を考えるとアリなのではないだろうか。
話を批判について戻すが、私は、そもそも、人は「批判する」ものではなく、「意見する」ものだ、と思っている。
そして、人に意見をする際に欠かせないのは、提唱した対案をいざという時に代行完遂できる能力と気概だ、と思っている。
なぜなら、批判が報われないのは、意見、即ち、「解決へ向けたアプローチ」や「解決の具体策」が無く、かつ、批判者が相応の実現性と本気度を基に批判しているのか疑わしいため、被批判者が具体的な解決行動を先送りにしてしまう(→結局やらない)からだ。
ちなみに、私は、仕事柄意見をよくする。(笑)
が、いずれも、提唱した対案をいざという時に代行完遂できる自信がある場合だけだ。
私は、冒頭で述べた通り、政治に精通しておらず、対案を提唱したり、いざという時に代行完遂できる能力と気概を持ち合わせていない。
だから、首相はもちろん、自分が選んだ政治家の仰せには従うまでだ。(笑)
以上が、辞任会見が終了した時、頭に浮かんだ事項だ。
懸案の映画であった「嫌われ松子の一生」を見るのがまたしても先に延びたのは残念だが(笑)、自分が選んだ首相の最後のスピーチを目の当たりにできたこと、並びに、批判と意見について再考できたことには満足している。
<関連記事>
渡辺明竜王の意見表明に触発されるの巻
グッドウィルグループの折口雅博会長兼CEOがマスメディアから批判されている様を見、批判について考えるの巻
某ジャーナリスト氏の安易な同情から同情の要件を反面教師的に学ぶの巻
「なぜ、政治家は自分の誤りを認めないのか」について考えるの巻
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この記事へのコメント
> 人に意見をする際に欠かせないのは、提唱した対案をいざという時に代行完遂できる能力と気概だ、と思っている。
久しぶりに膝を打ちました。
多くのマスコミ、そして多くの野党、無論、多くの国民も、この視点が欠けているような気がします。
といって、今回の福田首相の辞め方が、容認出来るものでもないですが‥‥‥。
しかし、堀さんも懐が深いですねー。
私は無象無象の小雀同様、一時の感情に流されて、ピーチクパーチク、ブー垂れるタイプなので(汗)。
Posted by もえもえ at 2008年09月06日 10:19
もえもえさん
こんにちは、堀です。
コメントをありがとうございます。(礼)
> 久しぶりに膝を打ちました。
不肖私の考えで膝を打っていただき、光栄かつ嬉しいです。(礼)
打率が上がるよう、今後も精進いたします。(笑)
> 私は無象無象の小雀同様、
小雀なんて、そんなそんな〜ですよ。
もえもえさんのお気持ち、わかるつもりです!
こんにちは、堀です。
コメントをありがとうございます。(礼)
> 久しぶりに膝を打ちました。
不肖私の考えで膝を打っていただき、光栄かつ嬉しいです。(礼)
打率が上がるよう、今後も精進いたします。(笑)
> 私は無象無象の小雀同様、
小雀なんて、そんなそんな〜ですよ。
もえもえさんのお気持ち、わかるつもりです!
Posted by 堀 at 2008年09月07日 07:23