2009年06月01日

「なぜあの人はあやまちを認めないのか(著:エリオット・アロンソン/キャロル・タヴリス)」を読むの巻

「失敗などしていない。うまくいかない要素を一万個も見つけるのに成功したんだ」。
これは、白熱電球を発明するのに一万回失敗したことを残念がる人へ向けた、発明王トーマス・エジソンの言葉だ。

「さすが天才!なるほど物事の捉え方が(私のような凡人とは)全然違う!これぞ正しくポジティブシンキング!」。
これは、私が初めてこの言葉を聞いた時に抱いた思いだ。(笑)

「そう、そうなんだよ!私もそう思ったんだよ!」。
これは、あなたさまが今抱いた思いだ。(笑)

たしかに、この言葉が意味するところは、規範的だ。
また、この言葉に抱いた私とあなたさまの思いは、もっともだ。

だが、この思考習慣&経路は、盲従に要注意だ。
なぜなら、物事を規範的かつ前向き(ポジティブ)に捉え、自分の行動と結果を成功的に(成功と絡めて)考えようとするあまり、つい、自分の愚かさや足りなさから目をそむけ、それらが引き起こした誤りや過ちを正当化し、物事をややこしくしてしまうからだ。

「物事の成就や自分の成長を心底期待するには、自分の愚かさや足りなさを正しく認知し、そして楽観することが欠かせない。
人が自分の過ちを認めないのは、自分の愚かさや足りなさを正しく認知してまで、物事の成就や自分の成長を期待していないからである」。
私は、「なぜあの人はあやまちを認めないのか(著:エリオット・アロンソン/キャロル・タヴリス)」を読み、そう考えた。
著者は、以下の旨提唱している。
「人が自分の過ちを認めないのは、認知的不協和により自己を正当化する(=不協和を減らして、自らの信条や自信、決断、自尊心、心の安寧を守ろうとする)からだ。
そして、不協和を減らそうと自然努めてしまうのは、自分の愚かさを認知/周知するに足る謙虚さが無いからだ」、と。

先述の私の考えは、この提唱に対する不遜な意見であるが、誤りかもしれない。(笑)
ただ、私は、自分の愚かさや足りなさを数え切れないほど(笑)認知→楽観しているし、発展途上人として成長を心底期待している。
ついては、あなたさまが先述の私の意見に誤りを感じた折は、その旨ご指摘いただけると幸いだ。(礼)



★本文転載(※一部編集しています)

認知的不協和とは、心理的に相容れないふたつの認知事項(思想、態度、信念、意見など)を抱えこんだ時に起こる緊張状態であり、自己正当化の原動力である。たとえば「喫煙は命を縮めかねない愚かな嗜好である」という考えと「私は日に二箱の煙草を吸う」という事実がこのふたつの認知事項になる。不協和が生じると、人はちょっとした心痛から深い苦悩まで様々な不快感を抱き、これを解消する方法が見つかるまで気分が落ち着かない。煙草の例でいえば、喫煙者が不協和を減らす最短の方法は禁煙である。しかしこれに失敗したとなると、自分にいろいろ言い聞かせて不協和を減らす必要が出てくる。「煙草って言われるほど体に害じゃないわ、そりゃ少しは悪いかもしれないけれど、吸えばほっとするし、体重は増えなくなるし」などなど。
不協和が心を乱すのは、矛盾したふたつの考えを同時に抱くのはあえて不条理に近づいていくことであり、アルベール・カミュが言ったように、自分はそれほど不条理な存在ではないと心に言い聞かせながら人は生きていくものだからである。フェスティンガーの理論の核心は、矛盾した複数の考えに人はどうやって意味を見つけ出し、少なくとも本人としては首尾一貫した人生を送っていくのか、である。
(P23)

「疑わしいと判明したときには考えを変えるのも、科学的態度のひとつであるはずです。たしかに、たやすいことではありません。つぎこんだ時間、つぎこんだ金、大いなる希望、大いなる期待、そしてかなりの自尊心。こうしたものを総計してみれば、反証を突きつけられるのはじつに辛いものです。とことん、謙虚さを教わった経験でした」。
謙虚さ――。たしかに彼にとっては謙虚さを学ぶ屈辱的な体験だっただろうが、しかし最終的には、この謙虚さこそが核心だ。人間の心がどれほど協和状態を求め、信条や決断や好みに疑念を起こさせる情報を拒否しようとするかが理解できれば、自分が間違うかもしれないという事実に心を開くことができる。常に正しくありたいとの欲求からも脱却できる。自信満々というのは、すばらしくて役に立つ性質だ。いつもうじうじと迷って、治療法を決められない医者に診てもらいたい者などいるはずもない。が、しかし医者には常に心を開き、新しい知識を進んで学ぶ気持ちをもっていてほしいとも思う。同様に人生には、情熱を注げるものや深く信じるものがほしいとも思う。生きていく意味や楽しさ、力や希望を与えてくれるからだ。しかしどんなときにも正しくありたいと思いこむと必ず、独善さが生まれる。自信と確信だけが結びつき、ここに謙虚さや、自分の弱さを認める気持ちが入る余地がないと、健全な自信が傲慢さへ変わる一線を人は簡単に越えてしまう。
(P299)

不協和は、人間が生来感じるものだが、あやまちについて考えるのは生来の習慣ではない。
(P302)

「まともで賢い人間である私があやまちをおかしたとしても、私はまともで賢い人間のままであり、しかしながらあやまちが消えることもない。さあ、これからどうやって償えばいいのだろうか」
(P305)

子供も大人も失敗を恐れているのは、冒険をおかすのを恐れているからだ。彼らには間違う自由が与えられていない。
(P307)

詩人であり翻訳も手がけるスティーヴン・ミッチェルは老子経に想を得て次のように記している。
偉大な国家というものは、偉大な人間に似ている。
あやまちをおかしたときには、それに気づく。
気づいたときには、それを認める。
認めたときには、それを正す。
あやまちを指摘してくれた者を、彼は最善の師と考える。
(P310)

頭は自己正当化という鎮痛剤を処方してもらって不協和という痛みから自分を守ろうとしたがるが、心は罪を告白したがっている。
(P314)

なぜあの人はあやまちを認めないのか
エリオット・アロンソン
河出書房新社
2009-03-20




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