2009年10月01日

「第17回脳の世紀シンポジウム」に参加し、羽生善治さんの基調講演を拝聴するの巻

昨日、私は、「第17回脳の世紀シンポジウム(主催:NPO法人脳の世紀推進会議)」に参加し、将棋棋士の羽生善治さんの基調講演を拝聴しました。
羽生さんは、王座戦18連覇(!)という前人未到の偉業を成し遂げてから一週間も経たない中、特段疲労を感じさせず、いつもの通りの淡々とした口調で(笑)、50分間もあり難いお話をしてくださいました。

私は、講演の内容に対してはもちろんですが、心底愛しかつ求道する将棋の普及へ向け殺人的スケジュールを厭わない羽生さんの生き様に対して感動しました。(感涙)
私は、この場を借りて羽生さんに謝意と敬意を表すと共に、拝聴した講演を文語編集の上掲載させていただきます。(敬礼)
参加できなかったあなたさまの参考になれば幸いです。
恐縮ながら、講演の中で一番印象に残った言葉を太線で表示させていただきます。
私は、該当の習慣及び習性の多様さ/深さ/力強さこそ、今日の羽生さんと私を分かつ根本事項と認識し、今後陶冶に励みたいと思います。


まず、対局中、どんなことを考え、どんなことを思っているのかについてお話ししていきたいと思います。

よく勘違いされるのは、「将棋のプロは何百手、何千手も読むことができ、先のことが何でもお見通しである」、ということです。
将棋の指し手には、無限の可能性があります。
何手先が読めたといっても、そんなことは可能性の全体からみれば、ホンのひとかけらです。

では、実際、何手先くらいであれば読めるのか。
このことについて、以前、プロ棋士同士で話し合ったことがあります。
結論は、「10手先の局面でさえかなり困難」でした。
10手先の局面というのは、大抵、自分が予想していない状態になっています。
予想外の手が必ず出てきて、「それにどう対応するか?」の繰り返しです。
本音としては、「五里霧中、暗中模索の中で、どんなものかよくわからないが、こっちの方がいいかな?」という感じで進めている感じです。

将棋の特徴の一つは、マイナスの選択肢で進められていくことです。
この点は、プラスの選択肢で進められていく囲碁と大きく違うところです。
将棋は、20枚の駒を進めていくゲームですが、それぞれの駒には「いい場所」というのがあります。
たとえば、飛車や角の大駒は自由に動かせる場所が、金は王様を守れるよう王様の横の場所が、それぞれ「いい場所」です。
自分も対戦者も、予め持っている理想や構想を基盤に、20枚の駒を「いい場所」へ一枚一枚進めていく。
中盤になると、各々の駒が「いい位置」に行ってしまい、煮詰まってしまいます。
ルールからすると、駒はそのまま動かし続けられますが、「いい位置」から離れてしまいます。
プラスの選択肢が見つけにくく、パスしたいくらいです。
将棋が「マイナスの選択肢で進められていく」のは、このためです。

対局していると、長考することがあります。
長考するケースは主に二つあります。
ひとつは、やる手、プラスになる選択肢が見つからないケースで、もう一つは、迷っているケースです。

「いい手」というのは、二時間とか三時間とか長考すれば必ず考えつくわけではありません。
そもそも、大体30分も考えれば、ひと通りの手がシミュレーションできます。
ひと通りの手がシミュレーションできたにもかかわらず長く考え続けるのは、最終的にいずれの選択肢をとれば良いのか踏ん切りがつかず迷ってしまっているのです。

長考し、「折角これだけ考えたので、他の手を考えるのが勿体無い」と感じて指すこともあります。
そもそも、「手をたくさん読むこと」より、「手を見切ること、割り切ること」の方が難しいのです。
だから、「手を見切ること、割り切ること」は、好調のバロメーターにもなるんです。

次に、データや記憶についてお話ししていきたいと思います。

私は、過去1,000局近く対局しています。
全対局の棋譜を全て覚えているかというと、あいにく違います。
ただ、棋譜を見れば、自分の対局か否かはわかります。
これは、文章を見れば、自分の文章が否かがわかるのと似ていると思っています。

プロ棋士の全対局は、年間で二千局に及びます。
最近はデータベースが充実してきており、プロ棋士であれば、コンピューターを使って対局の棋譜にすぐアクセスできます。
アクセスした棋譜は、早送りをすれば一分くらいで見終わりますが、そうした見方だと、一時間もしない内に忘れてしまいます。
だから、忘れたくない棋譜は、実際に駒を並べて指してみます。
物事をきちんと記憶するには、視覚以外のモノを使うのが大事なのかもしれません。

ある時、幼稚園に招かれ、園児と対局し、それを並べて欲しいとリクエストされました。
ただ、将棋を覚えてまもない人の手なので(予想外の手が多く)、思いのほか難しかったです。
物事を記憶するには、ある程度秩序だった公式とか法則の中に限られるのかもしれません。

今プロの間では、データの研究が、以前にも増して大事になってきています。
それをやらないと、スタートラインにさえ立てないという感じです。
以前は「局面がわからなくなってから、その人の真価が問われる」という感じでしたが、今は「データを研究していないと、最初に勝負がついてしまう」という感じです。
このことは、相撲の立会いに似ています。
いくら力量があっても、立ち上がって一秒も経たない内にまわしを相手に両手でとられてしまったら、勝負は終わりです。

たしかに、時間と情熱をかけてデータを研究すれば、対局早々一方的に負けることはありません。
でも、先ほど申し上げた通り、プロなら誰でもデータにアクセスできるため、それだけでは勝てません。
対局に勝つには、つまるところ、「データから外れた、羅針盤が利かない局面でどう指すか?」が問われます。

最近、新しい手を考えつくのは、以前にも増して難しくなっているような気がします。
理由は主に二つあると思っています。
一つは、基礎データの収集〜研究に年々時間が取られてしまうから。
もう一つは、基礎データの研究から培われた常識や先入観が邪魔をするから、です。
最近は少し下火になりましたが、一時期、高飛車(中座飛車)という新しい手、新しい戦術が流行りました。
この手は、「アイツの態度は高飛車だな」など普段「よくないことの代名詞」として使われていることもあり、私自身、最初の内違和感がありました。
でも、実際に指してみて、「なかなか優れた手だな」と思いました。

データベースが充実してきたため、今は、戦術の移り変わりがとても速いです。
昔覚えた手の多くが、知識として使えません。
10代の時一所懸命覚えた手など、今後公式戦に出ることはありません。
むなしく、悲しく思います。
ただ、10代の時一所懸命覚えた手は、知識としてはもう役に立ちませんが、その手を覚えるために費やしたプロセスは、未知のテーマ、課題、方法論を解決する時やマスターする時に役に立つと思っています。
未知の方法論に出会った時、「昔こうして遠回りした」とか「昔こうしてうまくいった」などのモデルケースがあれば、余計な時間を使わずに対応できます。
新しい作戦をマスターする時、「これぐらいのことをこれぐらいやれば大丈夫なはずだ」と安心でき、「こうやればうまくいく」という保証が無い不安が払拭できます。

最近はサインを求められると「八面玲瓏(はちめんれいろう)」と書きます。
八面玲瓏とは、不安な気持ちが無い心理状態のことです。
中国では、「八方美人」と全く違う意味のようですが。(笑)

対局を始めてまもなくの間は、八面玲瓏の心境で居られます。
でも、中盤へ進むに中で、次第に玲瓏で居るのが大変になってきます。

「まっさらで、何も考えない心境で居る」というのは、アイデアを考えるのに大事なことだと思っています。
頭がぎっしり詰まっている状態だと、アイデアが何も考えつきません。
忘れることも大事だと思っています。
だから、対局後感想戦で指した手を反省するのは大切ですが、感想戦が終わったら、さっぱり忘れて次に臨むのが大事だと思っています。
最近は、トシをとってきて、意識をしなくても忘れるようになってきていますが(笑)、覚えるべきものが年々増えている今、必要ではないもの、価値がないものはどんどん忘れていくべきではないか、と思っています。
「たくさん覚え、必要なもの、価値があるもののみきちんと記憶する」ということは、将棋の実力で言うところの車の両輪みたいなところがあるような気がします。

画期的な新手は、三年から五年に一回くらいしか現れません。
その他の新手は、今まで積み上げてきたデータとか定跡にもう一歩新しいことを付け加えたという感じです。

将棋の手は、形によっては深く研究されているものがあり、中には詰み(※最後の状態)まで研究されているものさえあります。
ただ、そういう手は、公式戦ではまず出てきません。
今は、情報が早く、一度どこかで対抗手段や結果が出ると、あっという間に広がるからです。
ちょっと前までは、ここまで早く広がらなかったので、新手を考えつくと、三ヶ月くらい使えたのですが、今は一週間くらいしか使えません。
新手を考えつくのと比べると、対抗手段を見つける労力は格段に少なくて済みます。
そもそも将棋には著作権という概念が無いこともあり、将棋の手は、すぐ流行り、すぐ廃れます。
何十時間もかけて新手を考えついても、そんなものです。
今は、独創的な将棋を志向する人にとって、大変な時代です。

独創的な将棋を志向した棋士に、今は亡き升田幸三先生が居ます。
升田先生は、風貌も独特なのですが(笑)、たまたまある時に棋譜を見始め、あまりの革新性、現代的なセンスに驚愕したことがあります。
現代的なセンスとは、立会いでパッと両回しを取ってしまう、機敏、俊敏な動きをするところのことです。
升田先生は、昭和30年代にして、現代的な感覚やセンスを持ち合わせていた。
でも、他に同様の感覚やセンスを持っている人が居ないので、誰もそのことに気づかなかったのではないか、また、風貌や生き様など目に見える部分が個性的過ぎるあまり、本質が見逃されてしまったのではないか、と思っています。

今の将棋はどうなのかと言いますと、非常に細かいところで工夫をしている感じがします。
最初の10手、20手で工夫をしているところが多いです。
ただ、非常にわかりにくいです。(笑)
たとえば、歩を突く順番を変えるとか、金を寄せる順番を変えるといったことだからです。

そうして画期的な新作戦を弄しても、たくさん対局をしていく中で、道が、定跡ができていく感じがします。
「未開の地で勝負ができる!」と思っても、半年も経つと定跡ができてしまって、独創性や創造性の局面へ持ち込み難くなっています。

だから、今は、どんな将棋を指すか、棋士にとって受難の時代です。
決まった形、局面だと、個性を出す余地が少ないです。
個性を出すには、独自に工夫したり、データを変えていくくらいしかないのではないか、と思っています。

個性を出そうと考え、今までに無い手を積極的に選択することは悪くありません。
ただ、そのために、いきなり自分のスタイルを180度変えてしまうのは、リスクというより無謀だと思っています。
「一年とか二年とか年月をかけ、結果、前に居た場所と全然違う場所に居る」というのが理想だと思っています。

プロとして23年やってきましたが、今でも「ああ、こういう手があるのか!」と感じることがままあります。
将棋の奥の深さを思い知ると共に、将棋を持続するモチベーションになっています。

昨年初めて、プロ棋士の全体局の内、後手番が勝ち越しました。
先手番の方が主導権が取り易い、得意形に持ち込み易いため、後手番より先手番の方が基本指し易いのではないかと思っていたので、このことを初めて知った時には「本当かな?」と思いました。
でも、最近は色々な人が色々な可能性を試みているため、「それもあるかもしれないな」と思い直しました。
長く、深く研究されている形は、先手番の方が部がいいものの、研究結果が確立されていない形では後手番も悪くないようです。
ちなみに、私の場合、「先手番なら嬉しいか?後手番ならつまらないか?」というと、いずれもでもありません。
先手番でも、後手番でも、「まあ、今日はどういうテーマで指そうかな」と考えますので、いずれでも気になりません。

(「将棋を考える時、言葉で考えるんでしょうか?」の問いに対して)
局面により違うと思います。
手を読んでいく、シミュレーションをしていくというのは、言葉とかそういうのに繋がると思うんですが、詰みの場面(※最後の状態)を想像してそこを目指していくというのは、言葉で無いような気がします。
色んな手を考えます。
ばらばらのジグソーバズルみたいな。
それが時間が経って、繋がる、形になるという感覚、形になる作業にしているという感覚はあります。

(「自覚している常人との違いはあるか?」の問いに対して)
答え難い質問ですね。(笑)
「考えて納得してから動く」という習慣は、将棋に限らないことですが、習性としてあるような気がします



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