2010年06月26日
「アスペルガー症候群(著:岡田尊司さん)」と「大人のアスペルガー症候群(著:佐々木正美さん/梅永雄二さん)」を読み、アスペルガー症候群の理解を深めるの巻
私は、過日、アスペルガー症候群に関する書籍を二冊読みました。
一冊は「アスペルガー症候群(著:岡田尊司さん)」で、もう一冊は「大人のアスペルガー症候群(著:佐々木正美さん/梅永雄二さん)」です。
私がアスペルガー症候群に関心を抱いたのは、「クローズアップ現代」を見てのことです。
「アスペルガー症候群」と病名付けられてはいるものの、いわゆる心身の病と異なり、周囲の人間の対応如何で、悪い結果だけでなく、良い結果ももたらす。
しかも、私自身、症状に覚えがある。(笑)
これが、私がアスペルガー症候群に関心を抱いた直接の理由です。
私が先述の書籍から深めたアスペルガー症候群の理解は、主に以下の三事項です。
一冊は「アスペルガー症候群(著:岡田尊司さん)」で、もう一冊は「大人のアスペルガー症候群(著:佐々木正美さん/梅永雄二さん)」です。
私がアスペルガー症候群に関心を抱いたのは、「クローズアップ現代」を見てのことです。
「アスペルガー症候群」と病名付けられてはいるものの、いわゆる心身の病と異なり、周囲の人間の対応如何で、悪い結果だけでなく、良い結果ももたらす。
しかも、私自身、症状に覚えがある。(笑)
これが、私がアスペルガー症候群に関心を抱いた直接の理由です。
私が先述の書籍から深めたアスペルガー症候群の理解は、主に以下の三事項です。
【1】アスペルガー症候群は、心の病気ではなく、「脳のかたより」、すなわち、脳の発達障害である。
【2】アスペルガー症候群の人が持つ「大多数の意見や感情に流されない」とか「自分が抱いた興味対象にのみトコトンこだわる」といった思考&行動習性は、周囲の対応により、唯一無二の大きな果実を社会にもたらす可能性がある。
【3】アスペルガー症候群の人への対応の基本は、“その”人を“そういう”人であると理解/認知した上で、本人の意思を重視しながら、不足している社会性の補正を補うこと。
日本のビジネスの多くは、「ユニーク(=他には無い独自の)」ではなく、「カイゼン(=既にあるもののブラッシュアップ)」を旨としています。
たしかに、「カイゼン」は有意義なことですし、決して悪いことではありません。
けれども、「カイゼン」ばかりでは、社会の広がりが限らますし、何より私たちが面白くないのではないでしょうか。
大多数と異なる意見や感情が尊重され、それを具現しようとしている人が肯定評価される。
そして、ユニークなモノが次々生まれ、私たちは狂喜乱舞する。(笑)
私たちが本当に面白いと感じる社会は、このようなアスペルガー症候群の人に優しい社会のように思えます。
とはいえ、私たちが、大多数と異なる意見や感情を尊重し、それを具現しようとしている人を肯定評価することは、容易でありません。
なぜなら、人は、そもそも、未知又はマイナーな考えや感情を、自分の生を脅かす因子として忌み嫌うからです。
「自分が知らない、理解できない考えや感情の存在を認めたばかりに、自分の考えや感情が行き場を失う(→自己が確認できなくなる)のではないか、自分の命が奪われるのではないか」と。
大多数と異なる意見や感情を尊重し、それを具現しようとしている人を肯定評価することは、私たちが、面白い社会を心底希求/想像しながら努力しない限りできないのです。
では、私たちが面白い社会を心底希求/想像しながら努力すれば、本当に、大多数と異なる意見や感情を尊重し、それを具現しようとしている人を肯定評価できるのでしょうか。
私は、「イエス」だと信じています。
「人の考え、感情、存在は、白黒はっきりつくものではない。
灰色だ。
だから、異質な他者と同じ社会に暮らす私たちは、灰色に耐えられるだけの『精神のたくましさ』を持たなければいけない」。
これは、私が、大学時代、哲学の清水禮子教授から習った「精神のたくましさ」です。
自分の考えや感情を認知し、それらと異なる未知又はマイナーな考えや感情を他者特有の異質性と受けとめ、自分の存在が灰色に感じられる時を凌ぐ。
私は、人が持つ「精神のたくましさ」を信じています。
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P18
発達障害は、生まれながらに脳機能のかたよりをもち、そのために発達にもかたよりが出るという障害です。
能力のバランスがかたよっているだけで、こころや体に異常があるわけではありません。
その一例がアスペルガー症候群です。
【2】アスペルガー症候群の人が持つ「大多数の意見や感情に流されない」とか「自分が抱いた興味対象にのみトコトンこだわる」といった思考&行動習性は、周囲の対応により、唯一無二の大きな果実を社会にもたらす可能性がある。
【3】アスペルガー症候群の人への対応の基本は、“その”人を“そういう”人であると理解/認知した上で、本人の意思を重視しながら、不足している社会性の補正を補うこと。
P174
さらに、(トマス・アルバ・)エジソン少年にとってはショックなことが起きる。
ある日、校長が学校を訪れた視察官に、「あの子は、頭がどうかしているので、学校に置いておくだけ無駄だ」と自分のことを話すのを聞いてしまったのだ。
すっかり打ちのめされたエジソンは、泣きながら家に帰り、学校に行かなくなった。
話を聞いた母親は、息子を連れて校長に会いに行くと、自分の方がこの子のことをわかっているので、自分で教えますと言い切って、退学させたのだった。
有名なエピソードであるが、むしろ重要なのは、その後、母親がどんなふうに、わが子の教育に当たったかということである。
母親がとった教育方針は、「形式的な教授法でアルの持ち味を縛るのではなく、何でもやりたいようにやらせて、アルの想像力が発揮されるようにやらせる」ことだった。
母親は時間を決めて、読み書きや算数のレッスンをしたが、それ以外は、本人の興味をうまく刺激しながら、本人の自主性を引き出していった。
エジソンは読書好きで、ことに歴史の読み物には熱中した。
母親が買い与えた「自然・実験哲学概論」という本は、エジソン少年を虜にする。
挿絵が満載のこの本には、電池の作り方や簡単な実験の仕方が、絵入りで紹介してあった。
エジソンは、台所から実験材料をこっそりもち出して、実験に耽るようになる。
すると、母親は、地下室を実験室としてアルに提供した。
誰が教えるでもなく、エジソン少年は自ら学んでいったのである。
P184
父親によると、ビル(・ゲイツ)少年は、将来の成功を思わせる、何ら特別な兆候を見せなかったばかりか、「当時は、あの子を頭痛の種だとしか考えていなかった」という。
息子の頑固な傾向やぼんやりして一向に準備ができないこと、協調性に欠けた態度やいたずらばかりしている点は、父親の目から見ても、将来を約束するものというより、不安を抱かせるものと映ったのだ。
だが、母親の見方はより肯定的で、その基本方針は、エジソンの母親と通じるものがある。
「わたしたちはどんなやり方にせよ、あの子の生活を縛りませんでした。
ただ状況をしっかりと把握し、できるだけ影響を与えようとしただけです。
でも、あの子は自分なりにきちんとやっていましたよ」
無論、ゲイツ家は、子どもたちを好きなようにさせていたわけではない。
そこには、明白なルールがあり、それに従うことは、ごく自然なことだった。
たとえば、ゲイツ家では、子どもがテレビを見るのは週末だけで、平日は見られなかった。その代わりに、母親は子どもたちに、よく本を読み聞かせた。
その甲斐あって、ビルも本が大好きになり、数学や科学の本にも興味を示したが、児童向けの物語りも夢中になって読んだ。
もう一つ特筆すべきことは、ゲイツ一家が、よくトランプやボードゲームやジグソーバズルを一緒に楽しむのを習慣にしていたことである。
知的な遊びを通して、競い合う楽しみやコミュニケーションしながら遊ぶ楽しみを味わっただろう。
オールAだった姉に比べれば、ビル少年の成績は、算数意外はやや見劣りがした。
しかし、両親は、息子の成績を上げることにはさほど関心も力も注がなかった。
むしろ、わが子の関心が、ともすると知的世界にばかり向かいがちなことを危惧し、ビルをグループの活動や屋外でも活動にできるだけ参加させた。
ボーイスカウトに入れたことは成功だった。
ビルはそれに打ち込み、徒歩旅行や冒険を楽しんだ。
楽しみばかりではない。
仕事を与え、地方紙の配達を週三回やらせた。
ビルの勤勉さは、そうした積み重ねによって培われていった。
夏は、水泳やダイビング、さらに大きくなってからは、ヨットで遊んでばかりいたが、それは望むところだった。
友人一家とともに、入り江のほとりの丸太小屋に二週間滞在し、そこに集まる子どもたちは、一緒にチームを作り、森や海で遊び回ったり、集団ゲームやキャンプファイアーをしたりして過ごした。
その体験はビルの心に残り、後に、彼の企業グループが毎年開催するイベントのモデルとなった。
日本のビジネスの多くは、「ユニーク(=他には無い独自の)」ではなく、「カイゼン(=既にあるもののブラッシュアップ)」を旨としています。
たしかに、「カイゼン」は有意義なことですし、決して悪いことではありません。
けれども、「カイゼン」ばかりでは、社会の広がりが限らますし、何より私たちが面白くないのではないでしょうか。
大多数と異なる意見や感情が尊重され、それを具現しようとしている人が肯定評価される。
そして、ユニークなモノが次々生まれ、私たちは狂喜乱舞する。(笑)
私たちが本当に面白いと感じる社会は、このようなアスペルガー症候群の人に優しい社会のように思えます。
とはいえ、私たちが、大多数と異なる意見や感情を尊重し、それを具現しようとしている人を肯定評価することは、容易でありません。
なぜなら、人は、そもそも、未知又はマイナーな考えや感情を、自分の生を脅かす因子として忌み嫌うからです。
「自分が知らない、理解できない考えや感情の存在を認めたばかりに、自分の考えや感情が行き場を失う(→自己が確認できなくなる)のではないか、自分の命が奪われるのではないか」と。
大多数と異なる意見や感情を尊重し、それを具現しようとしている人を肯定評価することは、私たちが、面白い社会を心底希求/想像しながら努力しない限りできないのです。
では、私たちが面白い社会を心底希求/想像しながら努力すれば、本当に、大多数と異なる意見や感情を尊重し、それを具現しようとしている人を肯定評価できるのでしょうか。
私は、「イエス」だと信じています。
「人の考え、感情、存在は、白黒はっきりつくものではない。
灰色だ。
だから、異質な他者と同じ社会に暮らす私たちは、灰色に耐えられるだけの『精神のたくましさ』を持たなければいけない」。
これは、私が、大学時代、哲学の清水禮子教授から習った「精神のたくましさ」です。
自分の考えや感情を認知し、それらと異なる未知又はマイナーな考えや感情を他者特有の異質性と受けとめ、自分の存在が灰色に感じられる時を凌ぐ。
私は、人が持つ「精神のたくましさ」を信じています。
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