2010年07月01日

「ハイデガーの思想(著:木田元さん)」を二度読み、ハイデガーの思想と糸谷哲郎五段の非常識かつ痛快な将棋の相関を探求するの巻

私は、過日、「ハイデガーの思想(著:木田元さん)」を二度読み終えました。
ちなみに、ハイデガーは「20世紀最大の哲学者」と称される人で、本書を二度読んだのは一度ではさっぱり理解できなかったからです。(笑)

たしかに、私は、学生時分、教養課程の単位として哲学を取りました。
清水禮子教授から授かった「プロクルステスのベッド」や「精神の逞しさ(Mentis fortitudo」の概念は、今尚とても助かっています。
しかし、哲学そのものには特段興味がなく、ハイデガーは完全な初見でした。

そんな私が、なぜ、ハイデガーの思想を理解しようと試みたのか。(笑)
それは、私の中での赤丸急上昇棋士である(笑)糸谷哲郎五段が、在学している大阪大学でトークサロンを開き、以下コメントなさっていた旨報じられていたからです。
P118
(糸谷哲郎五段は)大学で学ぶ(ハイデガー)哲学が将棋に与えた影響について聞かれると、「常識を懐疑できる。『それ以外はない』と考える方がむしろ難しい」(と答えた)。

将棋世界 2010年 06月号 [雑誌]
毎日コミュニケーションズ
2010-05-01


糸谷さんが私の中での赤丸急上昇棋士であるのは、強い(※2010年6月30日現在通算125勝57敗勝率0.6868)ことに加え、指しっぷりが以下非常識かつ痛快だからです。

<1>「右玉」というセオリー的には疑問符が付く戦法を選好している。
<2>持ち時間がたくさん残っていても、大概ノータイムで指す。
<3>勝勢になると鬼神の如く(しかもノータイムで)相手玉に襲いかかる。
<4>「ハブ睨み」ならぬ「イトダニ睨み(対局中上目づかいで相手をチラチラ見ること)」をする。

本年の三月に放映されたNHK杯準決勝の対渡辺明竜王戦では、これらの内<1>」こそありませんでしたが、それ以外は炸裂(笑)し、永世竜王の渡辺さんに「完敗」と言わせしめました


ついては、糸谷さんに将棋の常識を懐疑せしめ、将棋を非常識かつ痛快に指させしめているハイデガーの思想に興味を抱き、理解を試みた次第です。

結論を申し上げると、私は、この試みに失敗しました。(涙)
「ハイデガーの思想」を二度読むも、ハイデガーの思想を理解するには至らなかったからです。
ハイデガーが、西洋哲学の根本問題とされる「〔存在とは何か〕を問う」ことに傾注し、「本質存在(例:それが机である)」と「事実存在(例:ここに机がある)」の区別に執心したのはおおよそわかったものの、いかなる結論に辿り着いたのかはさっぱりわかりませんでした。

ただ、その上で推量もとい妄想を吐露させていただくと(笑)、糸谷さんが将棋の常識を懐疑し、将棋を非常識かつ痛快に指すのは、ハイデガーにならい、将棋の常識を哲学と同様「必然的に挫折するもの」と勇断し、将棋の常識の本質存在(例:それは真に定跡であるのか?)と事実存在(例:私糸谷の働きをしてここに新しい定跡があらしめられないか?)を不断に自問自答している表れのような気がしました。

P224
しかし、考えてみればハイデガーにあっても、「作品」の名に価するのは『存在と時間』だけであり、他はすべて論文か講義か講演である。
しかも、その『存在と時間』も結局は未完に終わり、その意味では彼もまた、シェリングやニーチェの挫折を繰り返していることになる。
彼がおのれの挫折をも、「二度にわたる偉大な挫折」にくわえて考えていることは明らかである。
そして、どうやら彼の考えでは、哲学は必然的に挫折する運命にあるものらしい
『いかなる哲学も挫折する。それは哲学の概念に属する』。

(中略)

シェリングやニーチェが、そしてさらにハイデガーがその哲学の完成に挫折したのは、こうした自己撞着に逢着したからにほかならないであろうし、逆に言えば、〈哲学〉とは存在史における存在の特定の生起の仕方に相関的な知、つまり存在史の特定の時代にしか成り立たない知だということになるであろう。

ハイデガーの思想 (岩波新書)
木田 元
岩波書店
1993-02-22


哲学と将棋は、それぞれ、ある時は人生の帰納であり、ある時は人生の演繹です。
私は不肖者ですが、糸谷さんが、今後益々、ハイデガーの思想にならって非常識かつ痛快な将棋を指されると共に、非常識かつ痛快な将棋にならってハイデガーの思想を、ひいては人生を紐解かれるよう、大いに期待したいと思います。



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