2011年06月16日
池田信夫先生の講演を拝聴するの巻
過日、私は、三省堂が主催する池田信夫先生(@ikedanob)の講演(「古典で読み解く現代経済」発売記念講演)を拝聴しました。
池田先生のお話は大きく、小市民の私(笑)には必ずしも完全理解できませんでしたが、基本強く同意すると共に、日本人に顕著な「異質性の嫌悪(=同質性の過剰支持)」、「右へならえ」、「前例踏襲」、「思考放棄」、「決断の先送り」、「面従腹背」が何に起因し、どのような実害を及ぼし、どう解決すべきかについて深く考えさせられました。
池田先生のお話は大きく、小市民の私(笑)には必ずしも完全理解できませんでしたが、基本強く同意すると共に、日本人に顕著な「異質性の嫌悪(=同質性の過剰支持)」、「右へならえ」、「前例踏襲」、「思考放棄」、「決断の先送り」、「面従腹背」が何に起因し、どのような実害を及ぼし、どう解決すべきかについて深く考えさせられました。
昨日、池田信夫先生の講演 http://bit.ly/kpv0wg を拝聴しました。日本の企業や政治が停滞しているのは「決められないから」であり、改革や意思決定を「決められない」のは「個人の自由」の概念の乏しさとその文化や歴史にある旨のご主張に禿同しました。
http://twitter.com/kimiohori/status/80758216660750337
私が先述の事項について深く考えさせられたのは、池田先生のご主張が非常に論理的だったことに加え、日々公私共々痛感している(痛い目を見ているw)からです。
私は、正直なところ、これらの事項の根本解決には最悪事態への陥落体験以外あり得ない考えていますが、気分を一新して(笑)、これらの事項を継続することの不効用と解決することの効用を、引き続き経営/マーケティングの視点と方法論からしつこく(笑)説いていきたいと思います。
なぜなら、それが、これらの事項の解決へ向けキャタリストたらん私にできる唯一のことであるのに加え、何よりやはり、痛い目を一日も早く見ないで済むようになりたいからです。(笑)
末筆ですが、不肖私をこのように意思決定させてくださった池田先生に、改めて深くお礼を申し上げたいと思います。(礼)
★池田信夫先生の講演のレジメ(※あくまで私の理解です)
【1】経済学は、自由経済を唱えたアダム・スミスと管理経済を唱えたマルクスの二項対立の図式で来ているように思われているが、それは間違い。古典である彼らの著書の「国富論」と「資本論」を正確に読み解くと、「個人の自由」を提唱、重視している点において、彼らの考えが根本的に等しいのがわかる。
【2】マルクスは「平等」を唱えていると思われているが、それも間違い。彼が唱えているのは逆の反平等主義で、ドイツ社会民主党の社会主義政策(例:所得分配)を否定している。
【3】スミスとマルクスの本質は、西洋の「啓蒙的自由主義」の末裔だ。「啓蒙的自由主義」の「啓蒙」とは「宗教(というものに知的に吸引されること)」だ。その最たるはキリスト教だが、いずれも、「現世の苦難は、神を信じることで、無限の栄光の未来に入っていける(=「千年王国主義」)として人を超越した絶対的権威の存在を説き、独自の独善的正義のもと、人々を一心同体にさせ、「自分たちは善で、相手は悪魔だ」と考えせしめる点で等しい。
【4】スミスとマルクスが、根本的に等しい考えを持ち、「啓蒙的自由主義」の末裔であるのは、共に、神(=絶対的権威)と「千年王国主義」に基づき、個人が自由に生きること提唱、重視しているからだ。
【5】西洋の文明を動かしているのは、昔も今も、「千年王国主義」とそれに基づく独善的思考(思い込み)だ。アル・カイダに対してブッシュやオバマが戦いをしかけているのも、その対立とバリエーションに過ぎない。
【6】ブッシュが結果的に10万人もの人を殺したのは褒められたことではないが、大統領が「戦うぞ!」と決めたら、ちゃんと戦える国や社会はすごいと思う。これこそ正に「啓蒙的自由主義」に基づく独善的思考、つまり「思い込みの強さ」だが、「何も決められない」首相のもと、「何も決まらない」日本よりいいと思う。
【7】「何も決められない」首相と「何も決まらない」日本は、「何も決められない」経営者と「何も決まらない」企業も同じだ。これは、自動車の製造など「カイゼン(=小さな改革の積み上げ)」が有効なビジネスにはいいが、新しいビジネスや大きな改革には不向きだ。アメリカの時価総額上位企業にはアップルやマイクロソフトといった新興企業が少なくないのに対し、日本にはファーストリテイリングとソフトバンクしかないのは、そういうことだ。
【8】なぜ、日本のリーダーは何も決められないのか。なぜ、日本という国や日本の企業は何も決まらないのか。この謎を解く鍵の一つに、「主君押込」がある。「主君押込」とは、一言で言うと、志村けん演じるバカ殿主君を家臣が座敷牢のような所へ強制的に閉じ込めてしまうことだ。対象の主君はバカ殿だけでなかった。藩政改革を企図した主君も対象となった。この20年、日本は首相が次々代わっているが、日本人は古来から「バカなリーダー」に加え、「強い(=大きな決断ができる、大きな改革を企図できる)リーダー」が大嫌いなのだ。
【9】つまり、日本は元より、自由で合理的な個人の意思決定を否定する国、社会なのだ。西洋が、絶対的な権威が頂点に君臨し、人はそれに放射状に(タテに)繋がっているのに対し、日本は、絶対的な権威も実質的な権力者も存在せず、人はアメーバ状に(ヨコに)繋がっているのだ。
【10】なぜ、日本は、日本人はこうなったのか。一因は、戦争(侵略)に遭わなかった、戦争を強いられなかったからだ。
【11】歴史的に見て、国家として「安定していた」のは中国だが、「成功した(豊かになった/繁栄した)」のは西洋だ。西洋は古来「千年王国主義」に基づく「思い込み」が様々あり、その異質性が戦争を日常的に招いていた。戦争に勝つには、金が要る。戦争に強い国は、経済も強い(→豊かになる/繁栄する)。経済が強くなければ、戦争に勝てない(→侵略される)。戦争に勝てば、領土が増える。領土が増えれば、経済は一層強くなる。
【12】一方、日本は、西洋から遠く離れた島国で、戦争(侵略)に遭わずに、戦争を強いられずに済んだ。しかも、人口が非流動的だった。日本人は、人を超越した絶対的な権威や価値を知的に信じる(=啓蒙される)ことやそうした知的信念を共有することが求められなかった。つまり、「啓蒙的自由主義」を会得する機会(必要)がなかった。小さな「ムラ」で、争いを起こさぬよう同質性(⇔様々な「思い込み」)を尊び、アメーバ状に(ヨコに)繋がっていれば良かった。
【13】それに、日本には、そもそも「(個人の)自由」の概念が無かった。たとえば、ムラというコミュニティを「自由に」行き来するのも少数で、ネガティブな印象だった。
【14】日本で「個人の自由」が根づく機会はあった。第二次世界大戦で敗戦した直後だ。丸山眞男や大塚久雄らが「個人の自律」と共に提唱し、1950年台は多く支持された。
【15】しかし、1960年に入り頓挫した。思想的に克服されたためではない。高度経済成長が起きたためだ。みんな豊かになり、「『個人の自由』は成功の必要条件ではないのではないか」、「(豊かになったから)もういいのではないか」と考えられてしまった。
【16】たしかに、中国を見てもわかるように、個人や政治のモラルの高さは経済の発展と比例しない。しかし、「霞ヶ関主導の社会主義」や「日本的経営」が幻であったのが明白になった今、日本が「何も決まらない」20年にピリオドを打ち、国家として生き残るには「啓蒙的自由主義」が必要だと私は思う。同質性が高いとか、みんなで自分の状況を共有しているというのは、政治でもビジネスでも悪いことばかりではないが、異質性が低過ぎると、大きな意思決定(→ブレークスルー/チャンス)を損ねてしまう。
【17】解の一つは、人(口)の流動性を高めることだ。しかし、政府には、「過剰な同質性は治さないといけない」という認識がそもそも無いので、実行は難しいだろう。
【18】解として、「制度」を見直したり、新しい「制度」を導入することを提唱している人が居るが、私は懐疑的だ。たしかに、「制度」は一定の効用はあるだろう。しかし、日本が長らく継承してきた、日本特有の「和」の文化が「制度」だけで変わるかというと、疑問符を付けざるを得ない。
【19】だから、私は、日本の文化に適した「啓蒙」に拠る「啓蒙的自由主義」が何かあり得ないものか、考えている。
【20】「啓蒙的自由主義」無しに日本が生き残れる可能性を模索するなら、それ無しに、圧倒的な国家資本主義で成功を遂げている中国をベンチマークするといい。
【21】もちろん、日本も中国にならい、国家資本主義で再起を企図するのも一つの方法だ。しかし、もはやコストが高くなり過ぎて、可能性は低いと思う。
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