2013年05月20日

他界したサラリーマン時代の同僚に「人生は終活だ」と明確に気づかされるの巻

過日、サラリーマン時代の同僚が脳腫瘍で他界しました。
年初、彼から以下、「終活」の文言入りの年賀メールがあり、覚悟はしていましたが、余りの早世に言葉を失いました。

この春から、○○(※愛娘の名前)は、△△大学法学部政治学科に通学します。
卒業までは生きたいと思っていますが、そろそろ終活をはじめることになりそうです。
なお、私自身の葬式はしませんので、ご理解ください。

ただ、私は、彼が終活を全うしたと確信しています。
たしかに、彼は最期、退院して自宅に戻ると、二度と意識を戻しませんでした。
しかし、彼は、昨春の年賀メールで私に以下吐露しており、思う存分家族と感謝を分かち合い、準備万端整えて旅立ったに違いないからです。

じつは昨夏、2度の手術で3ヵ月間の入院・休業をしました。
今は家族と過ごせる時間を大切にし、生かされている命に感謝しています。

私は、彼に以下の四事項を気づかされました。
一つ目は、「人生は余生だ」ということです。
たしかに、彼が終活を全うしたのは、余生を自覚したことが大きいに違いありません。
しかし、そもそも人生は寿命として限られており、自覚しようとしまいと余生と同義です。

二つ目は、「余生は有り難いものだ」ということです。
先述の通り、余生も人生同様限られており、かつ、人智の及ぶ所ではありません。
余生は文字通り有り難いものであり、彼が余命に感謝したのは自然です。

三つ目は、「余生は大往生の準備だ」ということです。
先述の通り、私は彼が終活を全うしたと、ひいては、大往生を遂げたと確信していますが、それは、彼が余生を自覚し、「家族と感謝を分かち合う」という準備を万端に整えたに違いないからです。
大往生は指を咥えているだけでは遂げられず、その準備が余生です。

四つ目は「人生は終活だ」ということです。
繰り返しますが、人生は余生と同義であり、余生は大往生の準備です。
私たち人間の本懐は大往生であり、いかなる人生も本質は終活です。

ただ、私は、これらに先刻気づいていたかもしれません。
というのも、こうして言葉にしてみると、近年、大往生の準備をしている覚えがあるからです。

私は、40才を過ぎた頃から、体力の衰えを感じるようになりました。
以前は、いくら肉体が疲労していても、持ち前の気力で(笑)やるべきことに集中し切ることができました。
しかし、その頃からは、肉体が一定以上疲労したまま集中を続けていると、まるでハンガーノックの如く、ある瞬間を境に突然切れ、茫然自失とするようになりました。

そこで、私は近年、負荷をかけたサイクリングと普遍的な言説を心掛けるようになりました。
私は移動の多くをサイクリングで賄う為、かつては登坂を避けていた(←発汗&エネルギーセーブの為)のですが、近年は避けないようになりました。
また、私は仕事が仕事な為、かつては「要するに、”その”問題の根本原因は何で、いかにして”その”問題を早く、確実に解決するか?」ばかり説いていたのですが、近年は「そもそも”その”問題が起きた本質的な原因(→再発可能性のある根源的理由)は何か?」や「”その"解決方法の主眼、肝は何で、いかに応用できる(すべき)か?」も併せて説くようになりました。

私が負荷をかけたサイクリングを心掛けるようになったのは、全うすべき集中が全うできるだけの体力を醸成、維持したいからです。
体力がボトルネック化し、知力と気力が具現できなくなれば、生きていても仕方が無いのは勿論、死んでも死に切れません。
そして、私が普遍的な言説を心掛けるようになったのは、数多の試練の渦中に巡り合った先人の知恵や真理と思しき思考を、時代と人を超えて後世に遺したいからです。
普遍性の言及が乏しいばかりに、持てる知恵と思考を全身全霊で具現した言説が、ワイドショーや週刊誌の特集の如く、刹那に聞き捨てられれば、また、刹那に読み捨てられれば、先人に申し訳が立たないのは勿論、自分自身やはり死んでも死に切れません。

「お前が近年やっている大往生の準備とやらは、要するに遺言の整備なんじゃないか?」
私は、浄土の彼に相変わらずの辛口口調で(笑)、こう指摘された気がしました。
私は、後年必ず、彼に面と向かって返答したいと思います。



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