2013年06月18日

統一球問題に関する張本勲さんの「『喝!』コメント」を拝聴し、「ベスト負け」を受容する意義を思い知るの巻

あなたさまもご存知の通り、先週来、プロ野球は統一球問題で大騒ぎです。
なぜ、「飛ぶボール」が人為的に作られたのか。
このてん末と責任を巡って、関係各所とマスメディアが、例によって茶番(笑)を演じている訳です。

ただ、一昨日の(※16日放送分)「サンデーモーニング」での張本勲さんの「『喝!』コメント」(笑)は、単に問題を大袈裟に論じたり、責任を単純化/糾弾するのではなく、及ぼすであろう悪影響から遡って、問題の問題足る所以を合理的かつ本質的に論じ、大いに考えさせられました。
以下は、張本御大には恐れ多いですが(笑)、その意訳です。

〔1〕
企業(→球団?)、日本野球機構(NPB)、業者(→ミズノ)は勿論「喝!」だが、選手会も「喝!」だ。

〔2〕
既に番組で公言しているが、私自身、5月には統一球の「飛ぶボール」化に気づいていた。
(開幕して二ヶ月目ともなれば)プロならみな肌感覚で気づいていたはずで、当然選手も気づいていたはず。

〔3〕
統一球は、世界基準で作られて然るべきボールだ。
従って、当事者である選手までもがこの変化を看過したことで、三つの問題が発生する。

〔4〕
一つ目は、「日本の野球は所詮『非世界基準ですよ』と自称、自虐しているに等しいこと」だ。
これだと、日本の野球は、いつまで経ってもローカルの野球にしか見られず、「大リーグの二軍チーム」との揶揄を免れない。

〔5〕
二つ目は、「投打の勝負が不公平化、ひいては、陳腐化すること」だ。
現状だと、投手は竹光で戦い、打者は真剣で戦っているに等しく、明らかに打者が有利だ。

〔6〕
三つ目は、「バッティングが雑になり、日本の野球そのものが劣化すること」だ。
現状だと、打者は理に適った打撃技術を会得せずとも、腕力でホームランが打ててしまう。
「ホームランは野球の華」と言うが、それは野球に無知な人の戯言だ。


「いくら日本の野球がオワコン化の様相を呈しているからとはいえ、利害関係者が結託して人為的に『打高投底』、即ち『ドンパチ野球』を作り、素人野球ファンの感情におもねるのは、中長期的には、日本の野球のコンテンツ価値を自ら貶め、熱心な野球ファンの期待を裏切り、オワコン化に拍車をかけるだけで、得るものは無い」。
不肖私、張本さんが本問題に「喝!」を四連発し、厳しく咎めたのは、かくなる不世出の名野球人としての高邁な思考と懸念に因るものと理解し、その慧眼の鋭さと普遍性の高さに強く感心しました。
そうなのです。
張本さんの永遠の宿敵(?・笑)の野村克也さんがよく仰るように「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」なのです。
私たち人間は、絶えず自己を正当化し、楽観し、楽をしたい生き物であるがゆえ、人為的と分かっていても外野フライがホームランになると、実力の成果と誤解、錯覚してしまい、果たすべき反省、自己鍛錬を怠ってしまう(→一層の実力/価値低下を招く)のです。
これは、新人営業マンの実績が思わしくないばかりに、上司が彼に自分の営業実績を安直に付けてしまうことの愚に通じます。

また、そうなのです。
コンテンツがオワコン化する、即ち、顧客が流入以上に流出するのは、コンテンツの絶対的価値が劣化し、熱心で忠誠心の高い既存顧客に愛想を尽かされてしまうからなのです。
先述の通り、私たちは、つい自己鍛錬を怠ってしまうがゆえ、このことを棚に置いてしまい、彼らの期待に価値向上で応えるのを等閑にしてしまいます。
そして、その代わりとして安直に、無知で気まぐれ新規顧客の気を引くよう努めるのですが、さすがにこれだけではザルで水をすくっているに等しく、顧客総数の純減は免れない、オワコン化は止まない、のです。
これは、視聴率が思わしくないばかりに、昨今テレビドラマが、流行りの芸能人や一話完結モノを多用した、底の浅いプロダクトプレイスメントに自ら貶めている愚に通じます。

誤解を恐れず極論すれば、私たち日本人が現在不況に喘いでいるのは、人為的かつ確信犯的に「当然の負け」を免れ、自ら手がけるオワコンの延命にのみ勤しんできたツケです。
将棋の島朗九段は、「プロ棋士は『ベスト負け』が明日をつくる」と説いています。
何らかのプロフェッショナルであって然るべき私たちも、あり得ない「当然の勝ち」の誘惑を断ち、「ベスト負け」を受容する必要があるに違いありません。



P169「ベスト負け」が明日をつくる

「ベスト負け」とは私が自分の中だけで考えている言葉である。将棋には勝ちと負けしかない。スポーツのようなスコアゲームでなく、大差か接戦かの具体的な表示がないのだ。完勝も、最後の逆転勝ちも同じ1勝なら、どんなにすばらしい内容でも、一手で切ない逆転負けもこれまた将棋の一部である。それも同じ1勝しか数えられない。

しかしもちろん、将棋がそれで完結する訳でもなければ、人生も将棋も続く。次の勝負の機会が与えられているのだ。プロは目先の結果が大事だが、それと同じくらい、次への見込みや展望が大きく影響を与える。

負け方の中でも、自分の力を出し尽したいわゆる「いい負け方」をさす言葉がそれにあたる。準備も遺漏なくすませ、対局相手にも臆することなく、終始自分のペースで理由なき不安を感じることもなく、これ以上できなかった、という状態で一局を指し終えれば、それは自分との戦いに勝ったと言える。結果がたまたまの負けと考えればよい。

例えばいくつかの岐路で、また同じ選択をしたと言いきれるなら、それは全く後悔する必要がない敗戦と考えてよい。それで負けたのならば、それは現時点での実力が素直に足りなかっただけの話で、負けるべくして負けたといえるのだ。ただ実力をつけるよう心掛けるだけのことである。将棋は相手との兼ね合いなので、どんなにベストを尽くしても、相手がそれを上回ることはいくらでもあるそれがベストの負けで、これができれば甘い言い方や慰めでもなく、次の勝利が確実に近づいたと言える。必要以上に敗戦という表層的な事実だけで自分を責めても、プラスは何もないと考えるべきだ。むしろそうした負けの中には、いい点も多くあったはずで、自虐的な姿勢はそんな自分の持っているいい点を否定してしまうことにつながる。

(中略)

しかし、ベスト負けは簡単にできることではない。負けた時にはいろいろな原因がある。何となく自信がなかった、苦手な相手だった、準備が的外れだった、忙しくて事前の準備ができていなかった、等々、よほど楽観的な人以外は、反省の中に多くのことを自然に結びつけている。対局前の行動や言動を思い浮かべたりする場合もあるはずだ。

将棋はまた審判のいないゲームでもある。その部分もスポーツとは違う。

(中略)

しかし将棋の場合はそうはいかない。言い訳を探すほうが難しいので、負けた場合は自分でその原因を考える必要がある。そして、自分の心理をその時思い出し、正直に検証するのは案外難しい作業である。

自信がなかった、と一言でいうのは本質を掘り下げているとはいえない。数分ごと、数十秒ごとに勝ち負けの心理の揺れる終盤などは、自信が生まれたり消えたりして当たり前であり、朝から終局まで自信満々の棋士などいるはずもないのだ。

ただ状態のいい時はそれを打ち消す心のよりどころがあり、悪い時にはそれが勝ってしまうということはよくある。一局の反省とは、テニスプレーヤーがその時の風向きや相手と自分の疲労度など、そのラリーごとに緻密に記憶しているように、中終盤などのその時の雰囲気まで記憶に新しいうちに記録しておくことで、次に同じような場面を迎えた時にどう対処したらいいかわかる

これは簡単そうで、かなり難しい反復練習である。思い出したくない心理もあるし、相手のいやな癖や気になる仕草などは忘れたいものだからだ。日記でさえ本当の気持ちではなく、人は誰かに読まれることを意識して書いている、と心理学の一説にあるように、反省ひとつでも本音をノートに書き出す、というのは実に難しいことなのである。厳しいこと、やりたくないことほど練習の効果は高い。これは単なる精神論ではなく、多面性を持つ将棋というゲームを理解する上で、大変重要なことである。

一方、勝ったからといっても反省点がない、というのがないのが勝負事である。「危機のない完勝などない」、とは王監督の言葉であるが、負けた時に後悔が入る反省よりも、気分が安堵感で満ちている、勝った時にこそ反省は必要である。たまたまの勝負手がうまくいった、一か八か、のギャンブル的な賭けで相手が間違えた、という勝ちは運の消費にほかならない。

人生でずっと運のいい人などいないように、長い棋士生活でいつまでも運で持ちこたえられることはない。次の勝負につながる勝ちこそ、本当の勝ちであることを棋士なら常に忘れてはならない。同じ対局中、自分のプレーに集中し、勇気をもって常に立ち向かえたか、苦しくてもあきらめないで戦えたか自分自身で検証することによって、いい勝ち方か悪い勝ち方か判断できる。






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