2014年03月31日
ふじいあきらさんと永六輔さんのマジック論を興味深く聞き入り、手品師の本質を語り部と理解すると共に、ビジネスの主眼を「『やさしい顧客』の創造」と再定義する必要に駆られるの巻
3月29日放送分の永六輔さんのラジオ(「永六輔その新世界」)の内、とりわけ興味深く聞き入ってしまったのは、大橋巨泉さんの中咽頭がんのご述懐以外にもう一つあった。
それは、ゲストでマジシャン(手品師)のふじいあきらさんと永さんとのマジック談義だ。
マジックは一般的に、「聞かせる」モノではなく、「見せる」モノと認知されているし、私もそう認知していた。
だから、当初、マジシャンがラジオに出演するのを奇異かつ前代未聞に感じた(※)が、永さんが冒頭に仰った、「ふじいさんは(マジシャンとして)喋りが上手いから(番組に)呼んだ」との一言から始まった両者のマジック談義、否、マジック論を拝聴し、間もなく合点した。
(※)ふじいさん自身、マジシャンのラジオ出演は自他共に殆ど記憶が無く、唯一はマギー司郎さんだけで、マギーさんはその時も普段通りにふるまわれていた、とのこと。(笑)
なぜ、マジックは「見る」ものではなく、「聞く」モノものなのか。
なぜ、永さんは、ふじいさんの喋りの上手さに感心し、番組へ招かれたのか。
両者のマジック論から理解したのは、「私たちがマジックに酔いしれるのは、マジックそのものではなく、マジシャンの言葉だから」だ。
それは、ゲストでマジシャン(手品師)のふじいあきらさんと永さんとのマジック談義だ。
マジックは一般的に、「聞かせる」モノではなく、「見せる」モノと認知されているし、私もそう認知していた。
だから、当初、マジシャンがラジオに出演するのを奇異かつ前代未聞に感じた(※)が、永さんが冒頭に仰った、「ふじいさんは(マジシャンとして)喋りが上手いから(番組に)呼んだ」との一言から始まった両者のマジック談義、否、マジック論を拝聴し、間もなく合点した。
(※)ふじいさん自身、マジシャンのラジオ出演は自他共に殆ど記憶が無く、唯一はマギー司郎さんだけで、マギーさんはその時も普段通りにふるまわれていた、とのこと。(笑)
六輔交遊録
ゲスト マジシャン・ふじいあきらさん
実はマジック好きの永さん。ふじいさんのマジックをみて、“喋りが面白いなぁ〜”と思ったそうで、今日はマジシャンですがラジオにご出演頂きました。
マジックの用語や基礎、そして難しさや苦悩を伺いつつ、実技開始!マジックの衝撃もさることながら、トランプを切る音の合間合間に入る説明や一言に引き込まれ、言葉のマジックにかかったようでした。
※番組HP3月29日放送分(↓)から転載
http://www.tbs.co.jp/radio/rokuchan/news/
なぜ、マジックは「見る」ものではなく、「聞く」モノものなのか。
なぜ、永さんは、ふじいさんの喋りの上手さに感心し、番組へ招かれたのか。
両者のマジック論から理解したのは、「私たちがマジックに酔いしれるのは、マジックそのものではなく、マジシャンの言葉だから」だ。
マジックの技術は、タネやカラクリに直結する。
だから、私たちはマジックという芸の内、マジックの結果(現状変化)は見えても、マジックの技術そのものを見ることはないし、また、見ても(多分)面白くない。
これは、私たちが「永遠の0(ゼロ)」の様な、VFXを使った映画を見るのは面白いと感じても、VFXの技術やそのカラクリを見ても(多分)面白く感じないのに似ている。
では、私たちはマジックというエンタメ商品の何を面白く感じるのか。
一言で言えば、「理解や期待の肯定的な裏切り」であり、換言すれば、「非常識かつ本意なハッピーエンドストーリー」だ。
これは、世の男性が、単に美形の女性が「アン、アン」もだえているだけのエロビデオ(AV)をつゆも面白く感じない一方、深窓の令嬢風が加藤鷹さんのねっとりした言葉がけで淫売に堕していくエロビデオに心身面白く感じるのに似ている。(笑)
然るに、私たちがマジックを面白いと感じるか否かは、即ち、マジックに酔いしれるか否かは、マジシャンの言葉で決まる。
マジシャンの本質は語り部なのだ。
そして、マジックは「聞く」モノであり、「聞かせる」喋りに長けたふじいさんを、永さんはマジシャンとして肯定評価し、自分の番組へ出演を請われたのだ。
それはそうと、この「マジシャンの本質は語り部」との考えは、成る程であると同時に示唆に富む。
たとえば、ふじいさんは、かつて永さんに「手品は新しくな(らな)い(娯楽商品だ)よね」と言われ、その予想外の慧眼に平伏なさったそうだが、この永さんの洞察がマジック業界の現状の課題、及び、マジックの本質を鋭く突いていることからも、「マジシャンの本質は語り部」と言えるに違いない。
もちろん、他の業界と同様、マジック業界も日々イノベーションが試行され、新しいマジックが創出されているに違いない。
ふじいさんも、「マジック業界には登録商標の類が無いので、他者が創造したマジックを自分が創造したが如く披露しているマジシャンが少なくない」と仰っていた。
しかし、これだけ文明が高度化すると、創出される新しいマジックは、既存のそれの延長線か組み合わせといった「持続的イノベーション(⇔破壊的イノベーション)」が大半であろうからして、真の(目)新しさを聴衆に与えることは困難に違いない。
また、よしんば、「破壊的イノベーション」の類の真に(目)新しいマジックを創出しても、肝心の聴衆が先ず理解できないに違いない。
であるからして、マジシャンがマジックの根源価値を担保し、聴衆をマジックに酔いしれさせるには、やはり「非常識かつ本意なハッピーエンドストーリー」を快活かつ雄弁に語る言葉を磨き、優れた「語り部」であり続ける必要があるに違いない。
そして、この、商品の製販者は「絶えず優れた語り部であらねばならない」との概念は、「絶えず対象マーケットに商品の選択判断基準を教示し、対象マーケットを啓蒙せねばならない」ことと併せて、マジック業界に限らず、他の殆ど業界、商品に、同義の背景と理由で当てはまるに違いない。
最後に、ふじいさんが単独で提唱くださったマジック論の内、私が一番興味深く聞き入ったのは、「マジックには『やさしいお客さま』が必要」とのお考えだ。
「マジックの所作を過度に近くで見ない、手元を凝視しない」。
「タネを詮索しない。もし発見しても他人にバラさない、吹聴しない」。
ふじいさんの言う「やさしいお客さま」とは、具体的にはこれらを遵守くださるお客さまのことだ。
要するに、ふじいさんのこのお考えは、「マジックというビジネスが成立するには、不毛なツッコミをしない顧客、即ち、目をつむるべきはつむり、大らかに見るべきは見てくれる、マジックの本質を心得た、賢明かつ寛容な顧客が必要だ」ということだ。
そして、この概念も、マジック業界に限らず、他の殆ど業界、商品に当てはまるに違いない。
実際、つい先だっても、「明日、ママがいない」というテレビドラマが、その趣旨と表現の際どさを拡大解釈され、各方面から叩かれたが、それはドラマという、架空かつ抽象化された物語を適切に読み解ける、賢明かつ寛容な視聴者が減少の一途であることが一因であり、更に言えば、そうした視聴者の育成を放送業界が長年怠ってきたことが主因だ。
たとえば、歌舞伎や文楽が成立するには勿論黒子が必要だが、真に必要なのは、黒子の役割と意義を正確に心得、何も言わずとも、出てきた黒子を敢えて見ない、出てきた黒子に心の目をつむってくれる、賢明かつ寛容な贔屓筋だ。
かつて、ピーター・ドラッカーさんは、ビジネスの主眼を「顧客の創造」と定義された。
しかし、競合と代替商品で満ち溢れている高度文明国に日暮らす私たちは、更に一歩進め、ビジネの主眼を「『やさしい顧客』の創造」と再定義する必要があるのかもしれない。
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だから、私たちはマジックという芸の内、マジックの結果(現状変化)は見えても、マジックの技術そのものを見ることはないし、また、見ても(多分)面白くない。
これは、私たちが「永遠の0(ゼロ)」の様な、VFXを使った映画を見るのは面白いと感じても、VFXの技術やそのカラクリを見ても(多分)面白く感じないのに似ている。
では、私たちはマジックというエンタメ商品の何を面白く感じるのか。
一言で言えば、「理解や期待の肯定的な裏切り」であり、換言すれば、「非常識かつ本意なハッピーエンドストーリー」だ。
これは、世の男性が、単に美形の女性が「アン、アン」もだえているだけのエロビデオ(AV)をつゆも面白く感じない一方、深窓の令嬢風が加藤鷹さんのねっとりした言葉がけで淫売に堕していくエロビデオに心身面白く感じるのに似ている。(笑)
然るに、私たちがマジックを面白いと感じるか否かは、即ち、マジックに酔いしれるか否かは、マジシャンの言葉で決まる。
マジシャンの本質は語り部なのだ。
そして、マジックは「聞く」モノであり、「聞かせる」喋りに長けたふじいさんを、永さんはマジシャンとして肯定評価し、自分の番組へ出演を請われたのだ。
それはそうと、この「マジシャンの本質は語り部」との考えは、成る程であると同時に示唆に富む。
たとえば、ふじいさんは、かつて永さんに「手品は新しくな(らな)い(娯楽商品だ)よね」と言われ、その予想外の慧眼に平伏なさったそうだが、この永さんの洞察がマジック業界の現状の課題、及び、マジックの本質を鋭く突いていることからも、「マジシャンの本質は語り部」と言えるに違いない。
もちろん、他の業界と同様、マジック業界も日々イノベーションが試行され、新しいマジックが創出されているに違いない。
ふじいさんも、「マジック業界には登録商標の類が無いので、他者が創造したマジックを自分が創造したが如く披露しているマジシャンが少なくない」と仰っていた。
しかし、これだけ文明が高度化すると、創出される新しいマジックは、既存のそれの延長線か組み合わせといった「持続的イノベーション(⇔破壊的イノベーション)」が大半であろうからして、真の(目)新しさを聴衆に与えることは困難に違いない。
また、よしんば、「破壊的イノベーション」の類の真に(目)新しいマジックを創出しても、肝心の聴衆が先ず理解できないに違いない。
であるからして、マジシャンがマジックの根源価値を担保し、聴衆をマジックに酔いしれさせるには、やはり「非常識かつ本意なハッピーエンドストーリー」を快活かつ雄弁に語る言葉を磨き、優れた「語り部」であり続ける必要があるに違いない。
そして、この、商品の製販者は「絶えず優れた語り部であらねばならない」との概念は、「絶えず対象マーケットに商品の選択判断基準を教示し、対象マーケットを啓蒙せねばならない」ことと併せて、マジック業界に限らず、他の殆ど業界、商品に、同義の背景と理由で当てはまるに違いない。
最後に、ふじいさんが単独で提唱くださったマジック論の内、私が一番興味深く聞き入ったのは、「マジックには『やさしいお客さま』が必要」とのお考えだ。
「マジックの所作を過度に近くで見ない、手元を凝視しない」。
「タネを詮索しない。もし発見しても他人にバラさない、吹聴しない」。
ふじいさんの言う「やさしいお客さま」とは、具体的にはこれらを遵守くださるお客さまのことだ。
要するに、ふじいさんのこのお考えは、「マジックというビジネスが成立するには、不毛なツッコミをしない顧客、即ち、目をつむるべきはつむり、大らかに見るべきは見てくれる、マジックの本質を心得た、賢明かつ寛容な顧客が必要だ」ということだ。
そして、この概念も、マジック業界に限らず、他の殆ど業界、商品に当てはまるに違いない。
実際、つい先だっても、「明日、ママがいない」というテレビドラマが、その趣旨と表現の際どさを拡大解釈され、各方面から叩かれたが、それはドラマという、架空かつ抽象化された物語を適切に読み解ける、賢明かつ寛容な視聴者が減少の一途であることが一因であり、更に言えば、そうした視聴者の育成を放送業界が長年怠ってきたことが主因だ。
たとえば、歌舞伎や文楽が成立するには勿論黒子が必要だが、真に必要なのは、黒子の役割と意義を正確に心得、何も言わずとも、出てきた黒子を敢えて見ない、出てきた黒子に心の目をつむってくれる、賢明かつ寛容な贔屓筋だ。
かつて、ピーター・ドラッカーさんは、ビジネスの主眼を「顧客の創造」と定義された。
しかし、競合と代替商品で満ち溢れている高度文明国に日暮らす私たちは、更に一歩進め、ビジネの主眼を「『やさしい顧客』の創造」と再定義する必要があるのかもしれない。
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