2017年01月12日

新年、51才を目前に、「誤解を残したまま縁者と別れない」と改めて自戒するの巻

私は本年、51才になる。
24才で一度死にかけたものの、挙句、その約倍、半世紀以上生きながらえてきたのかと思うと、何とも感慨深い。
そんなオヤジ、もとい、ジジイ(笑)の私が新年、51才を目前に改めて自戒することがある。
それは、「誤解を残したまま縁者と別れない」、ということである。
これ位の年になると、人と一度別れると、二度と会えないケースが少なくない。
その人が、折角巡り会えた縁者で、さらに、誤解を残したままだと、正に取り返しがつかず、切なさや自責の念に苛まれること必至である。

私がこのことを初めて身をもって知ったのは、母を亡くした時である。
私は、母との折り合いは悪くなかった(と自分では思っている)が、家でほぼ寝たきりになってからというもの、起業直後の繁忙さにかまけ、また、「そうは言っても逝くのはまだ先だろう」と高をくくり、母の意向の多くを「たわごと」や「甘え」と断じ、素直に受けとめなかった。
その最たるは、結果的に最後の入院になった日の朝、母が家を出る時に投げかけた「じゃ、行ってくるね」の言葉に、愛想良く応えなかったことである。
「腹を痛めて子を産み、苦労して育てた挙句がこれか」。
母は、病院へ向かう車中、さらには、記憶を走馬灯のように蘇らせていた臨終、さぞ無念に苛まれていたに違いない。
本件は、私の一生の不覚、かつ、背負うべき十字架である。

この十字架以外にも、私の背中は十字架でいっぱいである。
昨年新たにかなりの重さの十字架を背負い、覆い尽くされたと言って良い。(苦笑)
誤解を残したまま別れたサラリーマン時代のある上司が、膵臓がんで早世したのである。
たしかに、彼は、私が部下の頃から糖尿病を患い、既に健康体ではなかった。
その後、彼が外資系企業へ(※結果的には二度)転じたのは、当時の、リストラが最大のミッションの子会社社長業が肉体的に厳しいのが主因だったと、他界した元同僚から聞いた。
しかし、自分も外資系企業に転じた経験があるので断っておくと、彼は転出先で、肉体的には楽になったかもしれないが、知的かつ精神的には比べ物にならないくらい厳しくなったに違いない。
それに、一旦陥った不健康体は、悪化の速度を遅くすることはできても、好転させることは基本できない。
彼は転出先で好業績を出し続けたが、それは、彼が日々劣化する肉体を、独自の聡明過ぎる知力と、基本非情な精神力で鞭打ちながらの自転車操業によるもので、当然早世を後押ししたに違いない。
これが彼の本意だったか否かは不明だが、人生のカウントダウンを心身のどこかで聞きながらも、職を退くまで好業績を出し続けた彼の決心と行動は、敬服以外ない。

こんな彼を、私は部下時代、誤解していたのである。
「若かった」と言えばそれまでだが、人より多く現場を踏み、かつ、実績も出していたのを良いことに、私は彼の机上、ロジック優先で、時にスタッフ、現場軽視に見て取れる思考、仕事の進め方に、「だから、ロクに現場で働いたことのない、自分でモノを売ったことのない人間はダメなんだ」と、懐疑と反発を覚えていたのである。
「○○(※彼の名字)課長の仰ることは分かりますが、それでは現場は動きません(し、業績も好転しないです)よ」。
私は、業務進捗の個別レビューの場ではいつも彼にこう歯応えし、他の場では基本口をきかなかった。
彼は彼で、私の歯応えを取り合わず、基本口をきいてこなかった。
こうした私と彼のやり取り、間柄は、本人たち以上に周囲の方が冷や冷やモノだったようで、仲の良い先輩は「大丈夫か?」と心配してくれた。

私は当時、彼に一度だけこう言われたことがある。
「オマエは頭が良いんだから、もっとうまくやらないと」。
彼が私にこう言ったのは、個別レビューを終え、席を立つ時だった。
もっとうまく「やらないといけない」のは、それとも「やるべき」なのは、はたまた「やらないと勿体ない」のは、私の仕事の進め方なのか、思考態度なのか、生き方なのか。
私はすぐに判別できず、何も応えられなかった。
ただ、彼が私を、部下として持て余しているのは明らかだった。
私は次回の人事を覚悟した。

私の覚悟は無用だった。
次回の人事で、私は悪くない部署に異動し、彼は先述の子会社社長に着任、転勤したのである。
まもなくして、新しい上司が歓迎会を催し、少し酔いながらこう漏らした。
「(今回の人事異動に際し)堀のことは、○○から推薦があった。『現場をよく知っていて、きっと役に立つ。それに、一度はこういうオカミ(笑)の部署で働いた方が、□□(※私が在籍していた事業部名)にとっても、本人にとっても良いはずだ』って」。
私は驚きの余り言葉を失った。
私は彼を誤解していたのである。

そもそも私と彼は、口をきかない間柄ではなかった。
私と彼がそんな間柄になったのは、部下と上司の関係になってからのこと。
それ以前は、私は彼をデキる先輩として慕っていたし、そんな私を彼も少なからず買ってくれていた(覚えがある)。
「オマエと◇◇(※先輩社員の名前)の(入社)年次が逆だったら良かったのにな」。
初めて協働したプロジェクトの時など、彼はこう言い、担当地区の業務連絡は専ら私としてくれた。
以来私は、彼と行事で顔を合わせた時には、進んで挨拶、声がけをし、彼も応えてくれた。

彼はなぜ、私を部下に迎えたのか。
また、なぜ、こんな現場畑の私を敢えて逆撫でするロジック一辺倒、かつ、つれない思考態度を取り続けたのか。
本当の所は分からないし、もし彼に訊けたとしても、本当の答えは得られなかっただろう。
ただ、それでも私は、彼が同意してくれれば、いつかもう一度会いたかった。
そして、上司時代の私情抜きの評価とはからいに感謝し、部下時代の私情まみれの誤解と不遜を詫びたかった。
そう、私の誤解、および、過誤の元凶は、稚拙な私情だったのである、

昨年、彼は早世し、私の身勝手な希望は断たれた。
以来、私は、自責の念に周期的に苛まれ、新年、51才を目前に、「誤解を残したまま縁者と別れない」と自戒を改めたのである。
私の本年の抱負は「稚拙な私情の制御」である。



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