2017年02月22日

時代劇「鬼平犯科帳 THE FINAL」を見、「リアリティの無さ」のあり難さに気づかされるの巻

私はドラマをめっきり見なくなったが、時代劇は映画を除き、そもそも見なかった。
なぜか。
ひと言で言うと「縁遠い感」なのだが、それではなぜ他の演劇、エンタメコンテンツと違い、縁遠く感じたのか。
原因は三つある。

一つ目は、「否定的な刷り込み」である。
私は中学まで、父方の祖母と同居していたのだが、祖母は来る日も来る日も一日中、竹枕で横寝しながら「銭形平次」や「水戸黄門」に興じていた。
「『時代劇』=『老人がこよなく愛する予定調和のチャンバラ劇』」。
私の幼い脳は、こう否定的に刷り込まれてしまったのである。

二つ目は、「馴染みの主役俳優の少なさ」である。
時代劇に出演する俳優、それも主役級の多くは、歌舞伎を主とする伝統演劇の名優、所謂「大御所」である。
たしなみを欠く私は、彼らが馴染めなかったのである。

そして、三つ目は、「リアリティの無さ」である。
時代劇の舞台は、侍の存在していた社会である。
当然現代、現実とかけ離れた非日常であり、また、それが時代劇という演劇の「フォーマット」である。
しかし、無粋な私は、これが許容できなかったのである。(笑)

さて、こんな時代劇と縁遠い私だが、昨年末、時代劇を見た。
それも、定番中の定番、かつ、特番の「鬼平」(※正確には「鬼平犯科帳 THE FINAL 後編」)を、である。
なぜか。
現実的には、妻が仕事で見なければいけなかったから、だが、不肖のオット的には、原作者の池波正太郎を偲ぶ講演(※演者は池波正太郎記念文庫指導員の鶴松房治さん)を妻とデートがてら聴きに行こうと予定していたから、である。(笑)

生まれて初めてまじまじと見たテレビ時代劇、「鬼平」は、思いの外面白かった。
また、以下気づかされた。

[1]時代劇は必ずしも「単なるチャンバラ劇」ではない(→有意なエンタメコンテンツ、演劇「フォーマット」である)。
[2]時代劇は「リアリティが無い」から良い(→「リアリティの無さ」こそ競合優位の源である)。


これらを確信したのは、ラス前、鬼平こと長谷川平蔵とその上司の京極備前守の、以下の問答を見た時である。
【京極備前守(演:橋爪功さん)】
だが、そもそも、その「報謝宿」なるもの、盗んだカネで設けられたものではないのか?

【長谷川平蔵(演:中村吉右衛門さん)】
・・・

【京極】
さようなものをそのまま差し置いて、いかがなものか?
いかな人助けも、悪をもってしては台無しではないか?

【平蔵】
御尤もなる仰せ
しかしながら、貧しき者の理屈はまた別。
生命を繋ぐ一椀のかゆに、善悪の区別がござりましょうや。
人というものは良いことをしながら悪いことをする、善と悪とがないまぜになった生き物でござります。
人の世も、尋常一様にはいきませぬ。
かように是非弁別の分かち難きことは、見て見ぬふりをするのも肝要かと。


【京極】
今の言葉、肝に銘じておこう

【平蔵】
ははあー。
(したり顔で頭を下げる)

先に補足すると、「報謝宿」はホームレスの緊急避難宿の類で、寄る辺を無くした貧困者に当座の住まいと食べ物を無償提供する、今で言うNPOのサービス(笑)である。
今回の事件は、このNPOの代表者(笑)を中心に起き、かつ、彼も全くの無辜ではなかった(盗人業を財源に報謝宿を営んでいた)のだが、平蔵はそれは咎めなかった。
その沙汰を案じた上司の京極は平蔵と問答に臨み、根拠を問いただした。
しかし、平蔵は回答、否、説教した。(笑)
それも、京極に逆ギレされず(←プライドを傷つけず)、かつ、京極の上司の問いただしにも転用できるように、という訳である。

平蔵の説教は、要はこういうことだろう。
「人という生き物、および、その所作と社会は、善悪、是非を一刀両断できないばかりか色々あって当然で、白黒付けなかったり、時にそもそも見なかったこと、知らなかったことにしてしまうのが、人生上賢明であり、また、方便である」。
これは、松本隆さんの詞に負けずとも劣らない(笑)、正に「時代を超える」普遍の真理(人間の本質)であり京極に負けず劣らず「肝に銘じるべき」(笑)である。
しかも、「近年批判されてばかりの『決められない日本人』は、『決められない」のではなく、敢えて『決めない』ところもあり、必ずしも捨てたものではない、否、却って誇るべき国民性である」との含みもうかがえ、いよいよ「肝に銘じるべき」である。

エンタメコンテンツ、中でも演劇は、主役、もしくは、そのメンター役の準主役が最後「肝に銘じるべき」をのたまい、感心感動と引き換えに視聴者をお説教するのが「お約束」であり、だからこそ有意なのである。
平蔵の京極への説教、ひいては、「鬼平」の視聴者へのお説教は、非常に巧妙、もとい(笑)、上手で、正に「お約束」通りである。
私は、時代劇を「単なるチャンバラ劇」と一蹴してきた不明を恥じ、そして、自問した。
なぜ、「鬼平」はこんなにお説教上手なのか。

自答は三つある。

一つ目は無論、「原作の妙」である。
後日、講演で鶴松先生に質問したところ、平蔵の主張の「善悪と是非の表裏性、混在性」は、「仕掛人・藤枝梅安」ほか多くの池波作品に通じる、言わば「池波哲学」であった。
筆力ある作家が、普遍の真理を信条、心の叫びとして表す以上、「御尤もなる仰せ」が「御尤もなる仰せ」に成り、説教がましさと無縁なのは当然である。



二つ目も無論、「脚本と演出の妙」である。
中村吉右衛門さんと橋爪功さんの演技は見事であったが、あそこまで「御尤もなる仰せ」が「御尤もなる仰せ」以外受け取りようがなかった(笑)のは、妙なる脚本と演出の為せる業である。
ちなみに、台詞の「ないまぜ(綯い交ぜ)」と「是非弁別」が初耳だったのは、ここだけの内緒である。(笑)

最後の三つ目は、「時代劇の妙」である。
先述の通り、時代劇、ならびに、時代劇という演劇「フォーマット」は非日常で、リアリティが無い。
しかし、下手にリアリティが無いからこそ、却って我々視聴者の「こんなことないだろう!」等々、個別の現実、日常、経験に基づく瑣末かつ不毛な違和感、ツッコミを封印し、我々の耳目を専ら物語の本筋、本質に引けるのではないか。
そして、この「リアリティの無さ」こそ、時代劇のお説教上手の肝であり、また、時代劇というエンタメコンテンツ、演劇「フォーマット」の他には無い独自価値、および、有意性の源ではないか。

これは、同じ辛口コメントでも、マツコ・デラックスや厚切りジェイソンら、所謂「オネエ」や「ガイジン」タレントのそれの方が比較的視聴者に聞き入れられることに通底する。
「著者と読者も、山と人も、離れている方が良い」。
これは「思考の整理学」の著者、外山滋比古さんの講演録だが、益々もって「御尤もなる仰せ」である。
我々は、こんな物事が複雑に入り組み、本質が見え難くなった現代を生き抜く以上、「リアリティの無さ」を努めてあり難がる必要がある。



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