2017年03月13日

ネイザン・イーストのファンイベントに参加し、「ファンを大事にする」コトの何たるかと人的多様性に寛容になるヒントを気づかされるの巻

分かっているようでいて、分かっていないことの一つは、「ファンを大事にする」という言葉、および、コトである。
「ファンを大事にしよう!」
「ファンを大事にすること!」
いずれも尤もであり、こう言われて違和感を覚える人は殆ど居ないだろう。
しかし、「じゃあ、実際どうアプローチしたら、ファンを大事にできるの?」とか、「そもそも、『ファンを大事にする』ってどういうことよ?」と不意に訊かれ、明確に即答できる人も殆ど居ないだろう。

なぜ私はこんなことをのたまっているかというと、かくいう自分がそうであったからである。
先月、私は、ネイザン・イースト(Nathan East)のファンイベントに一ファンとして参加し、ネイザンに「大事にされ」、分かったのである。

本論に行く前に、知らない人へネイザン・イーストをひと言紹介しよう。
ネイザンは世界的名ベーシストである。
「弘法筆を選ばず」であるように、「名プレイヤー曲を選ばず」(?・笑)である。
このイベントは、自名義の新譜「Reverence」のリリースに因るものだが、ネイザンがプレイするジャンルはジャズ、ロック、ポップスを問わず、広範極まりない。
他名義の、所謂「スタジオミュージシャン」でのそれはとくに。

Reverence
ネイザン・イースト
ヤマハミュージックコミュニケーションズ
2017-01-11


実際、私が彼のプレイを初めて自覚したのは杏里のヒット曲の「気ままにREFLECTION」であり、かつてスティーヴ・ルカサーがギターでそうであったように、ヒット曲に石を投げてみると、そのベースはネイザンのプレイであることが少なくない。





ちなみに、「気ままにREFLECTION」のヒットは、サビの、杏里が「気・ま・まに・リフレクショーン」と歌い上げる部分で、ネイザンがリズミカルかつインパクト溢れるベースラインを演じ、リスナーの脳内ヘビロテ(笑)を実現したからだと、私は信じて止まない。(笑)
そもそも、ベースは読んで字の如く、楽曲の根音とリズムを担う地味な存在だが、ドラム共々無くてはならない「縁の下の力持ち」であり、ことネイザンにおいては、「ヒットの力持ち」(?・笑)と言っても過言ではない。

本論に戻る。
「ファンを大事にする」とはどういうことか。
また、「ファンを大事にする」には実際どうアプローチすべきか。
以上、分かった「気がした」(笑)のは、第一部のライブリハーサルが終わり、第二部のトークセッションが始まった時である。
カメラ小僧、もとい、カメラジジイ(笑)の私が、年甲斐もなくファンスマイル全開で(笑)最前列へ駆け寄り、インタビュアとの対談を撮影し始めると、何とネイザンはすぐさま笑顔で応えてくれたのである。
それも、二度も、である。

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分かったと「確信した」のは、トークセッションが終わり、ネイザンとの一対一のフォトセッションが始まった時である。
私は、先ずネイザン専属(と思しき)カメラマンに、久しぶりの片言英語で(笑)「よろしく」と挨拶すると、何と彼はひと言、「こちらこそ!それはそうと、オレもオマエが履いているそのadidasのシューズ持ってるぜ、色は違うけど!良いよな!」。
次に憧れのネイザンに、「goodな音と笑顔をありがとう」と挨拶すると、何と彼もまたひと言、「おお、それは良かった!それはそうと、オマエ良い身体してるけど、何かやってるのか?ランナーか?」。
私も負けずにひと言、「いや、自転車乗りなんだ!サイクリングが好きなんだ!」。
ネイザンは更にひと言、「おお、それは良いじゃん。どうりで良い身体してる訳だ!」。

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そうである。
「ファンを大事にする」というのは、先ずファンを、意思ある「個人(の総和)」と見ることである。
定量化した「数字」とか、カテゴライズした「属性」とか、十把一からげの「群衆(の一員)」とか、決して見ないことである。
そして、他の誰とも、たとえ自国の大統領とも分け隔てなく、個人のオンリーワンの人生と存在を肯定することである。
要するに、今的にひと言で言えば、「ファンの多様性(ダイバシティ)に寛容になること」である。
また、そのための実際のアプローチは、先ず個人特有の人生と人となりに関心を持つことである。
そして、対話し確かめることである。
更には、これらのプロセスを、妻(夫)に対するのと同様(笑)意識し、楽しむことである。

成る程である。
「人的多様性に寛容であること」。
これは近年、ファンに対してだけでなく誰に対しても、また、ミュージシャンにだけでなく誰にでも、ついには企業の経営者にも、しきりに唱えられているが、英国のブレグジットや米国のトランプ現象が表すように、殆どはお題目のままなばかりか、却って逆に向かっている嫌いさえある。
それもそのはず、我々の多くは、そもそも袖振り合った人を掛け替えのない個人と見ない。
単に通りすがった「有機体」と感じ、スマホのスクリーンから目を離さない。
また、個人と見ても、ネイザンやカメラマンのように、意識して彼(彼女)に関心を持たない。
他者への関心を無意識に一任すれば、その殆どが無関心に終わり、人的多様性に不寛容と相成るのは当然である。

なぜ、ネイザンやカメラマンは、袖振り合った私のような一ファン、および、個人に関心を持てるのか。
それも、かくも熱心、かつ、あたかも無意識的に。

近因は、プロフェッショナルの自覚だろう。
たとえば、先述のネイザンの新譜はフィリップ・ベイリーやチック・コリアら、所謂大物ミュージシャンとの共作だが、ネイザン曰く、彼らは「友人」で、「『(今、新譜を録音しているのだけど)スタジオに遊びにこないか!』と招いた」。(笑)
また、「リスナー(=ファン)も僕からしたらファミリーみたいな感覚だ」
プロフェッショナルであり、かつ、あり続ける条件の最たるは、理解支持者に恵まれることである。
もっと言えば、自分の創造する独自価値、および、そのプロセス(思考態度)を持続的に肯定してくれる仲間と顧客に恵まれることである。
それには、先ず自分が彼らを友人、家族の如く、掛け替えのない個人と見、肯定することが有効、かつ、不可欠であり、プロフェッショナルの自覚があればこそ、彼らへの関心に自然意識も働けば、熱も入るというものである。
「情けは人のためならず」であるように、「関心は人のためならず」(?・笑)である。

根因は、プロフェッショナルの達観だろう。
イベントの第二部のトークセッションで、ネイザンはファンと以下の旨問答した。

【某ファン】
その最高のリズムは、どうリズムを感じ、どう練習した賜物か?

【ネイザン】
一番は「聴くこと(listen)」。
(ベースの)女房役であるドラムのハイハットの入り方とかベースドラムのリズムをよく聴き、自分がどう入るべきか判断し、プレイしている。
これは、息子のノアを含め、アドバイスを求めてきたミュージシャン全員に言っていることでもある。
いかに演奏技術が高くとも、共演者がどうプレイしているのかよく聴かなければ、演奏が合わず、コミュニケーションにならない。
「聴くこと」より大事なことはない。

「音楽も人の営みの一つに過ぎず、本質はコミュニケーションである。最高のプレイの一番の練習、肝は、他者のプレイをよく『聴くこと』である」。
私は、ネイザンの答えをこう咀嚼し・・・

・・・気づかされたのである。

そうである。
音楽業界、それも米国のそれは、とりわけ新規参入と新陳代謝が激しく、資本主義社会の格好の縮図である。
その「ザ・競争社会」と言うべき米音楽業界を40年、浮き沈みし、かつ、自問自答と試行錯誤を絶やさず生き抜いた、「ザ・プロフェッショナル」と言うべきネイザンの達観の一つが、この言葉である。
世知辛く、不寛容がまかり通る現代資本主義社会において、我々がネイザンの如く、袖振り合った個人に熱心、かつ、あたかも無意識的に関心を持つには、そして、人的多様性に寛容になるには、競争の経験値と達観が低位過ぎるのである。






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