2019年09月24日

渋野日向子選手が全英凱旋後初勝利し、人が大舞台に立ち、勝つ意義と「錦の御旗」の使用上の注意を再認識するの巻

全英凱旋後、遂に渋野日向子選手が勝った。
あたかも我が子の(笑)活躍で嬉しいのひと言だが、親御さんの安堵は拝察するに余りある。


最終日の申ジエ選手、イ・ミニョン選手の不調は「神の恵み」だったろうが、勝利を決めた、渋野の16番のチップインバーディは、全英という大舞台を勝利した渋野自身の実力であり、貫禄であり、また、自負だったろう。
渋野は今回の勝利でまた「レベルが上がった」(笑)に違いない。
やはり、人は大舞台に立ち、かつ、勝ってこそ、である。

それはそうと、先掲の記事曰く、「周囲の期待は、常に20歳の強さと笑顔に求められていった」とのことだが、「どの口で何を言わんか」である。
凱旋後のメディアの渋野の取り上げ方、特に試合中継は「偏り」が過ぎ、彼らが彼女の「強さ」と「笑顔」を浪費したのは確かである。
メディアの「偏り」の根源、ならびに、インセンティブ(誘因)は「錦の御旗」に違いない。
「大衆のニーズにこたえる(→見たいものを見せる)」という。
彼らが「錦の御旗」に掲げるのは結構であり、かつ、一定合理的である。
しかし、「偏り」が過ぎ、挙句、対象者の上がるべきレベルが上がらず仕舞いでは、当の対象者も大衆も、挙句、メディア企業も、機会損失、悲劇である。
メディアであれ何であれ「錦の御旗」を掲げる者の思考は、「全体最適」、「システム」、「持続性」に基づくそれであり、かつ、具現される必要がある。



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