2019年11月10日

川添象郎プロデューサーから「ブータン料理」を売るツボ&思考態度を学ぶの巻

例えば、「中華料理」屋と「ブータン料理」屋とでは、開業の成功率は相当違う。
なぜか。
マーケットの周知、オーソライズ(≒市民権獲得)率に相当の開きがあるからである。
日本人の多くは、「中華料理」なら、味はともかく、どんなメニューにありつけるか、いかほど満足できるか予め察しがつくが、「ブータン料理」だと、味もメニューも察しがつかないからである。
しかして、「ブータン料理」屋を開業するなら、「中華料理」屋とひと味もふた味も異なる開業戦略が必要である。

YMO(Yellow Magic Orchestra/イエロー・マジック・オーケストラ)という音楽コンテンツ(商品)はかつて「ブータン料理」であった。
なぜか。
YMOの音楽は「テクノポップ」と言われ、現状マーケットも確立されているが、リーダーの細野晴臣が命名した(と言われる)この呼び名も、音楽カテゴリーも、かつては音楽リスナーに周知、オーソライズされていなかったからである。
「テクノポップ」の開祖がYMOかクラフトワークかの「歴史的真偽」(笑)はさておき。

YMOはいかに売れ、成功したのか。
近因が[海外公演の成功→日本逆輸入]なのは周知だが、なぜ海外公演は成功したのか。
なぜYMOの演奏、音楽は海の向こうでウケたのか
当時の既存音楽評価脳では理解困難、かつ、そもそもリスナーに周知、オーソライズされていなかった、マーケットそのものがほぼ無かった、新しく、正にユニークなコンテンツだったにもかかわらず。

「川添さんなくしては、YMOの成功はなかった。そう言い切れますよ」。
過日、YMOの発想源の細野晴臣は、自分のラジオ番組「Daisy Holiday!」(←「祝!細野晴臣 音楽活動50周年 × 恵比寿ガーデンプレイス25周年『細野さん みんな集まりました!』」の公開収録)でこう断言した。



細野の言う「川添さん」とは川添象郎であり、川添は当時YMOのプロデューサーである。
細野は、当時の川添の各種取組を「裏工作」と評し(笑)、挙句、こう断言したのである。

★全文書き起こし(感謝!)
http://biscuittimes77.hatenablog.com/entry/2019/10/27/210143

「裏工作」とは、内容をかんがみるに言い得て妙だが(笑)、川添の各種「プロデュース」が、当時「ブータン料理」のYMOの演奏、音楽をリスナーに周知、オーソライズさせる「戦略は細部に宿る」を地で行くツボを抑えた著効解であったのは確かである。
中でも、川添の弁による以下の事例の赤線箇所は、その極み(?・笑)と言っても過言ではない。
プロデューサー、それもとりわけ「マーケットに周知、オーソライズされていない商品を売らんとする」プロデューサーのあるべき思考態度について学ぶ所が多い。
【1】
YMOは1978年、ファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ (YELLOW MAGIC ORCHESTRA)」をリリースした。

イエロー・マジック・オーケストラ(2018年リマスタリング)
YELLOW MAGIC ORCHESTRA
ソニー・ミュージックダイレクト
2018-11-28


「できたから一度聴いてよ」。
リリースにあたり、リリース元(※アルファレコード)の社長で幼馴染みの村井邦彦から、こう、元気のない、困惑した声で電話がかかってきた。
早速聴くと、初っ端から「ピ・コ・ピピピ・コ・・・」。



初めて聴く音楽に、村井同様困惑し、頭を抱えた。
「この『新しい』音楽を、マーケットにどう広め、売ったら良いのか」、と。

【2】
このファーストアルバムは、当初、細野(ブランド)の信用でもって3千枚しか売れなかった。
ビジネスとしては惨敗であった。

【3】
そこでプロモーションである。
アルファレコードの冠で「FUSION FESTIVAL」というフュージョンの、今で言うフェスを紀伊國屋ホールで催し、フュージョンではないYMOを無理くり(笑)入れた。
ライブプロモーション(※)である。
(※)周知、オーソライズ不全の音楽コンテンツをライブ演奏で直截リスナーへ売り込むこと。

【4】
更に、当時アルファレコードと提携していたA&Mレコードの指折りプロデューサーであるトミー・リュピーマを、来日、宿泊先のオークラで拉致した。(笑)
そして、しこたまシャンパンで酔わせ、YMOの演奏を見せに紀伊国屋ホールへ連行した。(笑)
海外プロモーションである。
結果、トミーからアメリカデビューの言質を取った。

【5】
とはいえ、その後トミーも、自分や村井と同じ目にあった。
アメリカデビューを決めたものの、YMOの「新しい」音楽に頭を抱えるばかりだった。
しかし、決めた以上、さしあたりアメリカでもライブプロモーションをしなくてはならない。

【6】
そんな折、同じA&Mレコード契約で、当時人気のチューブスがライブツアーをやることになった。

Remote Control-Expanded Edition
Tubes
Iconoclassic
2013-04-30


聞けば、彼らはYMOがお気に入り。
加えて、YMOの演奏技術に一目も二目も置いていた(←日本人は結構誤解しているが、チューブスに限らず、海外のミュージシャンは日本のミュージシャンと比べると基本ヘタ。しかして、彼らの日本人ミュージシャンに対する畏敬は計り知れないものがある)。
そこで、YMOはチューブスのライブツアーに同行し、前座をやることになった。
1979年8月、ロサンゼルスのグリークシアターで三日間である。

【7】
元々自分は、YMOの仕事をする前、高校卒業直後渡米し、以来ずっとエンタメ&ショービジネスの仕事をしていた。
当然、アメリカにおけるそれらの「作法」、「慣わし」は心得ており、YMOがライブをやるにあたり所々案じることがあった。

【8】
一番は「『前座』感」。
当時、アメリカのライブ興行の「慣わし」に「前座の演奏は『音圧を下げる』」というのがあった。
これは、テレビ制作の「CMはメイン番組より『音圧を上げる』」に通じる、メインコンテンツを引き立たせる常道ではあったが、いかんせんYMOの音楽はインストルメンタルである。
ボーカルの無い、楽器演奏だけのライブを、例によって音を絞られ、「『前座』感」を醸成されてしまっては、届くはずのYMOの「新しい」音楽が観客に届かない。
無論、周知もオーソライズも図れない。
また、そもそも「前座(プリアクト)」とコールされたら終いである。

【9】
そこで講じたのは、舞台監督のマット・リーチの買収とイテコモマシ(≒恐喝)。(笑)
予想はしていたが、
実際にリハーサルでショボく絞られた演奏音を聴き、決心した。
先ず、マットに1,000ドル渡した。
そして、本番では音圧を下げないよう、ちゃんとした音量を出すよう、
YMOの演奏が観客にちゃんと届くよう、イテコマシた。
さもなくば、今後二度とショービジネスにありつけなくなると、当時A&Mレコードのの会長だったジェリー・モスの名前を出して。(笑)
また、YMOを「プリアクト」と言わないよう、「ゲストミュージシャン・オブ・ジャパン」と言うよう、イテコマシた。


【10】
これらは吉と出た。
演奏は一曲目から大音量で場内響き渡った。
YMOの音楽は観客に届いた。
バカウケし、挙句、前座ではあり得ないアンコールを求められる始末だった。
自画自賛だが、これはその後のYMOの成功に大きく貢献した。(笑)



なぜ、川添の「裏工作」、もとい(笑)、「プロデュース」は吉と出たのか。
近因は、やはり川添がアメリカのエンタメ&ショービジネスの「作法」、「慣わし」を心得ていたからである。
達成した「メインアクトに遜色ない(否、凌駕した?・笑)演奏音量」は正に戦略は細部に宿る」の「細部」であり、その着目は、「前座の演奏は『音圧を下げる』」というライブ興行の「慣わし」の心得に因るものだからである。
だが、川添はこの事例を述べた後、細野の「当時、自分は日々真面目に音楽を作っていた。そのことしか考えていなかった。(川添が)こんなこと(をしているの)は全く知らなかった」の弁を受け、以下の旨付言した。

あなたたちは日々音楽を好き勝手作っているばかりだから、売る方は余程考えなくては。(笑)
でも、それが音楽ビジネスというもの。
音楽を「作る人」がいて、それを「広める人」、「売る人」がいる。
「餅は餅屋」で、分業しないと。
売る方の本分は「エンターテイナーに気持ち良く仕事をしてもらうこと」。
さもなくば、ビジネスは始まらない。

成る程、川添は「戦略」の「ゴール」を正確に認識していたのである。
否、「認識」なんて生易しいものではなく、プロデュサーの責任、本分と「痛感」していたのである。
そして、「メインアクトに遜色ない演奏音量」という、「戦略」の構成要件である「細部」、かつ、ライブプロモーションのツボ、の達成にコンプライアンス度外視で(笑)自己ベストを尽くしたのである。

改めて、なぜ、川添の「プロデュース」は吉と出たのか。
根因は、女神が微笑んだから、もとい(笑)、川添が本当の戦略家兼「餅屋」であり続けたからである。
本当に旨い「ブータン料理」の料理人と本当の戦略家兼「餅屋」のコラボは、双方はもとより、社会、および、後世に有意である。



▼その他記事検索

トップページ < ご挨拶 < 会社概要(筆者と会社) < 年別投稿記事/2019年