2022年03月22日

「黄金の日日」を再見し、あるべき「譲れないもの」とその扱いについて考えさせられるの巻

「黄金の日日」という大河ドラマがある。
戦国時代、ポルトガル宣教師をして「ベネチアの如く、黄金の中に日日を過ごせり」と言わせしめた自治都市堺の、結果として政治に翻弄された栄枯盛衰を、市川染五郎(※当時)演じる商人、納屋助左衛門の目と生き様から描いた物語である。

私が初めて「黄金の日日」を見たのは、かれこれ半世紀前(苦笑)、小学生時分である。
当時、テレビは「一家に一台」の時代である。
どの家庭にも「チャンネル権」という、今の若い人には理解不能(笑)な権利が存在し、我が家は7歳上の兄が保有していた。
兄は私と違って博学で、大河ドラマを愛好していた。
しかして、我が家の日曜の晩飯は20時で、かけるテレビは大河ドラマと決まっており、私はそれを半強制的に見せられ(笑)、その一つが「黄金の日日」だったという訳である。
後年、日本史を学んだ際、北条政子というと岩下志麻が、はたまた、織田信長というと高橋幸治が、豊臣秀吉というと緒形拳が、高杉晋作というと中村雅俊が、伊藤博文というと尾藤イサオが、忽ち思い浮かんだ(し、今でも忽ち思い浮かぶ)ものだが、それはこの後遺症(笑)である。

私はこの「黄金の日日」を、再放送を機に、昨年来実家で兄と数ヶ月に一度一気見している。
半世紀前に半強制的に見せられた大河ドラマを、今改めて兄と見るのは、基本、兄との共通言語、挙句、コミュニケーション作りだが、「黄金の日日」が突出して好印象だったことが大きい。
とはいえ、具体的に覚えているのは、織田信長の問答無用のリーダーシップと、川谷拓三演じる善住坊のノコギリ引きの刑と、根津甚八演じる石川五右衛門の釜茹での刑くらいで、肝心のあらすじはさっぱりである。(笑)

ただ、実際に見始めてみると、その印象は不変なばかりか、それを凌ぐ。
半世紀人生経験を重ねた目で見ても、なかなか面白く、しかも、まま考えさせられる。
思うに、松本隆の詞と同様、時代を超え、かつ、対象者を選ばない普遍性が在る。
物事をよく分かっている人には深く堪能できるよう、また、よく分かっていない人にもそれなりに楽しめるよう創られており、「ウルトラセブン」に似ている。

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前置きが長くなったが、先週、今年初めて兄と一気見し、また考えさせられた。
それは、千利休がかつて側近を務めた秀吉から政権脅威認定され、敢えなく切腹した回(第40話「利休切腹」)のことである。
利休はいよいよ秀吉と対立し、助左衛門は身を案じた。
そして、帰国間もない天正遣欧少年使節の原マルティノを帯同し、利久庵を訪れた。
鼎談の中、マルティノは秀吉のリクルートを断り、天草の修道院に帰るという。
受諾の条件が棄教で、それではこれまでの人生、自己を棄てるも同然だという。
助左衛門は地元堺で庇護を申し出たが、マルティノは固辞した。
「皆、それぞれに譲れないものを持って生きている」。
利休はマルティノの決意とその底流に在る価値観、信念に、堺を愛し、愛された自分を、また、天下人と成り、変節のうえ、自分を排除するに思い至った秀吉を重ね、こう言った(と私は思う)。
続けて、今生の別れとなるであろうマルティノに、形見代わりに茶碗を進呈した。
助左衛門はルソン亡命の手引を申し出たが、利休は明言を避けた。
後日、利休は館を兵に囲まれ、遂に切腹した。

そう誰しも「譲れないもの」を持っているし、持っていて然るべきだが、それは命懸けの自己責任を伴うのである。
命懸けの自己責任を伴わないそれは、空論、我儘、所詮出任せで、他者の真かつ持続的な共感、共同を呼ばないのである。
他方、命懸けの自己責任を伴うそれは、その内容や理屈において他者の一切の評価を拒み、最大限尊重されるべきなのである。
個人、更には、社会の分断、対立、争いは、「譲れないもの」を勘違いし、濫用、ないし、敬意を失した人災である。











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